2009/05/05

35.北総石仏 白井ⅩⅠ

今回は北部風間街道沿いの石仏を見てみます。国道十六号を渡って白井工業団地を環状に進む形となります。今回も様々な石仏と出会えました。余談ですが、風間街道というのは昔からある名前と思っていたのですが、平成5年の公募愛称だと初めて知ました。 
  35-1.大下入口ローソン角の庚申塔 
白井循環バス・ナッシー号の石橋薬局前バス停を過ぎて進むと右手にローソンがあります。その角を右に曲がる角に石仏が2基建っています。左が明治7年出羽三山塔で道標を兼ねています。「南 松戸 東京、西 富塚 金山、北 中村 きをろし」この表示からみると多分、道を挟んだ反対側に立っていたようです。隣の文字庚申塔は天保十年((1839)折立村講中の建立によるものです。 この石碑と対角線上の角に鳥居が見えます。中には三猿の台石に乗った不明石祠が鎮座します。再建された石祠に元の石祠の屋根を載せています。石造物調査書にも記載がありますが三猿台石は石祠と別物でしょう。
35-2.白井第二小学校入口の庚申塔
更に風間街道を北上します。第二小学校入口の信号機があるY字の角に2基の庚申塔があります。左が弘化四年(1847)のショケラ持ち青面金剛塔、右が寛政六年(1794)文字青面金剛王塔です。何れも風化と排ガスの影響でしょうか、くすんで立っています。通学児童を見送っている筈ですが、印西浦辺地区で見た朱色の彩色を施した庚申塔のように、インパクトの強い装いをしてあげられれば子供たちもきっと元気が出る・・・かもと思ってしまいました。
35-3.中集会所(元薬師堂)の庚申塔 
更に500mほど進むと左手に墓地前に庚申塔群が並ぶ場所があり、隣接した広場に中集会所が立っています。写真の左はずれ道路沿いに庚申塔が9基並んでいます。左から文化元年(1804)と安永三年(1774)の青面金剛王塔、享保十一年(1726)六臂ショケラ持青面金剛像塔です。右の青面金剛像塔は風化が進んでいますが頭部がアーモンド型をしているように見えますがはっきりしません。次は天保十一年(1840)・元治元年(1864)の文字庚申塔に正徳四年(1714)三猿庚申塔が続きます。次が文化十年(1813)・天保二年(1831)青面金剛王塔に昭和30年文字庚申塔となっています。隣接して現代の筆子塔ならぬ中学恩師の顕彰碑が昭和33年に建てられています。2mに及ぶ大きな碑ですがその裏側に「卒業生有志で敬慕して・・」と刻まれています。昭和30年代といえば石仏信心はまだ児童でしたが、筆子塔ならぬ顕彰碑が地方によってはこんなに立派に建てられていた時代だったんですね。 隣の中集会所が立っている広場に入ると、左手に弘化三年(1846)子安観音像安置のお堂と平成13年現代風の五輪塔形式百観音巡拝塔、18番大師堂が並んでいます。百観音巡拝碑が平成3年・平成12年と並び、ミニチュアの弘法大師像には平成17年中大師講解散記念と台石にあります。つまり平成17年までは大師講が連綿と続いていたという訳です。団塊世代がリタイアを始めた今こそオリエンテーリングとしての現代の大師講を復活させてもいいのでは・・と思っているのですが。広場には昭和17年地藏菩薩と不明石仏が置かれています。ところで、道路を隔てた向かいの高みに朽ちかけた赤い木祠が目に付きました。覗き込むと木株が2株あって男神女神を表したのでしょうか、神妙に立てかけてありました。並べて置かれているところを見ると、御神体としてちゃんと祀ってあげたいところです。 
  35-4.榎台入口・庚申塚 
中集会所から道なりに白井工業団地を横断して約2km進むと榎台入口に入りますが、右手に休業中のエネオス給油所があります。その向かいが立派な庚申塚になっています。前列に4基の朱入文字庚申塔が並び、後列にも笠付青面金剛像塔1基、文字庚申塔8基が朱入で勢ぞろいしています。前列左から講員62名の平成17年庚申塔、昭和28年、昭和10年、大正2年と並ぶ堂々の朱入文字庚申塔であります。後列も左から明治26年、明治5年、嘉永七年(1854)朱入で刻まれた文字庚申が並びます。続いて天保九年(1838)文字庚申塔、天保二年(1831)、文政元年(1818)は大きな異体字青面金剛文字塔と続きます。次が唯一の青面金剛像塔で寛政五年(1794)ですが、二童子・四夜叉・三猿とフルキャストに近い陣立てです。久々のヒットですね。文字庚申塔群に囲まれると金剛の口紅まで可愛く思えるのが不思議です。続いて安永二年(1773)青面金剛文字塔が並び右端は正徳二年((1712)笠付庚申供養三猿塔で側面には大きな蓮花が刻まれています。 いつものようにお猿さんを載せておきます。この庚申塚は道路沿いですが光線の加減が悪いので見辛い写真となりました、残念。この場所は駐車余地もなく交通量も多いので拝観には気を付けましょう。 35-5.榎台入口の大日塚 
庚申塚から約200mすすむと左手に自然石型など3基の出羽三山塔が立っている土塁があります。それを目印に左折すると正面に大日塚がありその塚上に法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来が鎮座されています。中央に大日像、左に3基・右に2基の三山塔と2基の線刻大師像碑を従えています。塚側の桜の樹は大日如来に幡を差掛けたように絵になっています。一目見て、その凛とした容貌とお姿に心ときめき、めぐり合えたことに感謝の想いで御参りさせていただきました。春、桜の頃がこの大日塚を訪ねる最高の季節でしょう。 味気ない年代数字の羅列となりますが、寛文十二年((1672)大日像は年代的にも貴重、左手は大正14年、昭和27年、昭和36年の出羽三山塔が並びます。右手は昭和50年、平成6年の三山塔となります。塚右下は年不詳線刻大師像、明治33年新四国八十八番霊場線刻大師像となっています。また、塚への入口には明治7年・明治30年・大正2年の三山塔がたっています。いつか記載しましたが、大正期造立碑は官幣・国幣神社の表示となっています。上の写真でも大正2年塔は国幣月山神社・官幣羽黒山・湯殿山神社表示です。近代社格制度についてWikipediaでお勉強しておきましょう。 
  35-6.錠場の馬頭塚 
更に500mほど進むと三乃家墓石センターのあるY字路があります。そのY字箇所に文字馬頭観音2基と道標が放置されたように置かれています。今は痛ましい感じの寛政十二年((1800)文字馬頭塔と昭和21年文字馬頭塔の2基しか見当たりません。大正2年の道標は「東京 八里 松戸 五里・・」「佐倉 五里 千葉 七里・・」「成田 七里・・」と読めると楽しいものです。しかしこのように放置されたような姿は何とか改善されることを祈りたいですね。ところでこの場所を錠場というのは何故? 今回はこれまでにしましょう。

0 件のコメント: