2009/05/19

37E.江戸石仏 駒込から白山Ⅰ

北総石仏からちょっと離れて都内へ遠足してみます。特色ある庚申塔を巡ります。テキストは日本石仏協会編「江戸・東京ウォーキング」とその前版「石仏地図手帖東京編」です。気分転換にちょうどいい時間を過ごせます。 37E-1.富士神社の寛永庚申塔 山手線駒込駅から六義園を横目に本郷通を600m程南下し富士神社入口交差点を左に回りこむようにすると神社の鳥居前です。正面男坂の回りは鳶職の講中碑が朱も鮮やかに林立しています。私が取材している間に、何人もの方が通りがかりでもごく自然に石段下で礼拝している姿を見かけました。自分が場違いな気がして気を引き締めた次第です。敬虔な気持ちを忘れちゃいかんと反省しきりです。とはいえ纏の印がにぎやかです。そんな中に交じって目立たないけれど重要な板碑型庚申碑がそっと立っています。梵字キャ・カ・ラ・バアを頂き、寛永十七年(1640)を石仏表現で表記した板碑型庚申塔です。石段左には弘化二年(1845)安産神符塔なるものも立っています。急な階段をあがればコンクリート造りの社殿があります。本殿脇の女坂上がり場には宝永八年(1711)曾我御霊社が祀ってあります。その隣に明治四十四年にたてた市村羽左衛門(うざえもん)の記銘碑があります。「なんじゃこれ」としばし考えましょう。歌舞伎狂言の夜討曾我=夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)は富士の裾野の巻狩りを背景に話が進むそうですが、石祠曾我御霊社はその狂言にちなんだものを当時の売れっ子役者市村羽左衛門が寄進したのでしょうか?お勉強ついでに神社謂れと駒込ナスのの知識も仕入れておいてください。 37E-2.天租神社の庚申塔群 本郷通まで戻りさらに100mほど南下し区立第九中学校の前を通り過ぎれば正面が天租神社となります。写真は神社から振り返って参道を見た場面です。まず、お勉強してから入りましょう。鳥居から参道を100m進み本殿脇を右に回りこむと背面からの参道です。その参道入口脇に庚申塔が7基並んでいます。右からいくと延宝四年(1676)六臂合掌青面金剛塔で、「現伏三尸禍、速得二轉楽」と三尸調伏文言を刻んでいます。石仏信心にとって三尸文言は初見です。次は年不明の六臂合掌青面金剛塔です。次が寛文八年(1668)板碑型三猿庚申塔です。次は享保五年(1720)六臂合掌青面金剛塔となります。隣が慶安元年(1648)板碑型三猿庚申塔で「為庚申待意趣者二世安楽」と古い言い回しを刻んでいます。次は頭部の猿像が欠けていますが、元禄l五年(1692)板碑型庚申塔でしょう。隣は元禄十六年(1703)笠付三猿庚申塔(三面にお猿像)となっています。石仏手帖は正面は牡猿と言い切っていますが、今では断定できるほど象徴的ではないよなあという気がします。江戸前期の特色ある庚申塔が一遍に見ることが出来るのは矢張りお江戸石仏だからなんですね。本殿の戻り参道の右手に縁結び地蔵尊と如意輪観音のお堂があります。拝観しましょ。子育て地藏は昔は荒縄で縛って願掛けし、願いがかなって縄解きをしたという解説も読んでおきましょう。お堂の陰に水子地蔵尊もおられるのでちょっと拝んでおきましょう。 37E-3吉祥寺の庚申塔 天租神社から本郷通へ戻り更に200mほど南下すると、山門に栴檀林(せんだんりん)の額を持つ大寺院が諏訪山吉祥寺です。解説板を読むとわかりますが、文京区のお寺では歴史上の有名人のお墓を必ず載せています。これから回るお寺にもあちこちで掃苔録が載せてありますが、このコースでは原則パスします。参道を進むと左に露座のブロンズ大仏様です。その手前に普通の六地蔵がおられます。ですが「江戸・石仏ウォーキング」で蓮華浮き彫りの台石が見事とほめてありましたが確かにその通りですね。更に進むと二宮尊徳の有名な墓碑があるのでちょっとだけ載せておきます。ウィキペディアの記事もついでにどうぞ。記事にも載っていますが栃木県真岡市二宮町に二宮尊徳記念館があります。静かで気持ちよい所なのでついでの折に寄られることをお奨めします。閑話休題。尊徳墓碑の手前にも元文四年(1739)萬世常夜燈がどっしりと腰をすえています。ところで庚申塔はどこにあるかというと、参道左手の稲荷社の後ろ壁際に追いやられて佇んでいました。寛文八年(1668)の三猿塔です。「そりゃあ、尊徳さんの墓塔や萬世常夜燈の貫禄には負けますが、広い境内なのに写真もまともに撮れない塀際まで追いやられなくても・・・あんまりじゃないですか」と同情しちゃいました。旧経蔵も文京区の指定有形文化財指定で立派でした。解説つきでどうぞ。 37E-4.南谷寺の目赤不動 吉祥寺の斜め向かいが目赤不動の南谷寺です。目赤不動の謂れと目黄不動が複数あるなんて話はウィィペディアでどうぞ。門前に樋口一葉が思慕した(のぼせ上がった?)師匠・半井桃水の墓碑があると表示されています。さて、門前右手に丸彫りの白衣観音とも見える石仏がおられます。良くみると経持ちのようなので三十三体観音の一つ持経観音と思われますが初見です。持経観音は天明三年(1783)『仏像図彙』(ぶつぞうずい)に所載された図では右手が経持ちのようですがこの像は左手持ちです。経筒の代わりに魚籠をもてば完全に魚藍観音ですね。こちらには年不明ながら、しわの多い丸彫り恵比寿紳や金剛界大日如来がおわします。テキストでは立ち寄り省略してますが、時間があれば結構勉強になりますね。 37E-5.定泉寺の阿弥陀三尊板碑 南谷寺の隣が定泉寺です。きりがないのでテキストで示される石仏石塔のみ載せておきます。手前の参道沿いに線刻の閻魔大王碑と線刻六地蔵碑があります。共に昭和6年建立です。この六地蔵ですが上部種子の左二つは該当するものがありません、なんだろう?ここでは石碑よりその側にすえられた石製の垣根の素晴らしさに脱帽したので載せておきましょう。その先、参道沿い植え込みに小さな青石板碑が残欠ですが置かれています。蓮座の上、月輪の中にキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊種子を刻んだ至徳三年(1386)板碑です。そして本堂手前の木陰に阿弥陀仏を六面に彫りこんだ宝篋印塔が立っています。また参道から左の墓地入ると角型で立派な見道上人の墓石祠があり、その窓から観音菩薩のお姿がうかがえます。 37E-6.徳源院の庚申塔 定泉寺の先のT字路、駒本小学校前の信号を渡り250mほど進めば徳源院が左手にあります。目赤地藏の旧跡であることや動坂におられた日限地藏を安置したとうたっています。私が写真を撮っているときもいつものようにお参りにこられた婦人を見かけました。信仰が息づいているなあと感心した次第です。山門をくぐるとすぐ左に日限地藏(ひぎりじぞう)が立っています。地藏に向かって右側に道標も兼ねた文化四年(1807)再建?の猿田彦太神の文字庚申塔が置かれています。右側面は「 やなか道」など 正面は 「すぐ みぎ ・・・道」などと読めます。 37E-7.蓮光寺の板碑型庚申三猿塔 徳源院前の信号をわたり養源寺の前をとおれば右手に蓮光寺の参道が右手に現れます。墓地も参道左に広がっています。石仏探しは苦労しそうですが、ガイド通りに手短に拝観しましょう。参道右手は石仏がずらっと並んでいますがほとんどが墓碑なのでパス。六地蔵のならびに寛文八年(1668)板碑型庚申塔が見つかります。江戸前期もので私のホームグラウンドでは少ないですね。ガイド記載の「気品ある僧形像」は、今回訪れると墓所の前に供花立代わりに座っているようです(随身というらしいですね)ちょっとガッカリ。本堂左の立派な錫杖持ち地藏三体は右二体寛文三年(1663)・延宝三年(1675)ですが、こんな感じでおられます。墓地に見られる地藏三体如意輪観音二体の墓塔は樹木が邪魔してうまく写らなかったのでパスします。代わりといってなんですが右手首が欠損、頭部も継接ぎですが腰の据わった半跏踏み下げのお地蔵さまがおられました。 37E-8.光源寺の千手観音 蓮光寺を出て南下し角を右に曲がればそこが光源寺です。訪問時は境内に劇場?を建設中のようで落ち着かない雰囲気です。調べると水族館劇場という野外劇中心の演劇集団が根城にしているようです。それはさておき、まずは参道正面に駒込大観音が金ぴかで全面ショーウィンドウの奥にお立ちです。気圧されたのか写真を撮り忘れました。本堂右の木陰にお目当ての丸彫り千手観音さまがおられます。どうだ、参ったかといわんばかりで、信心は思わず合掌しましたね。通常,合掌手を入れずに左右20手計40手で各手25有界の衆生を救うために都合千手となるそうですが、この仏様は20手なので各手は50有界の衆生を救うのでしょう。(日本石仏事典)。お隣も重量感あふれる丸彫り阿弥陀如来坐像です。弥陀定印も大きくて眼鏡のようです。共に元禄・後期の建立だろうとのことです。北総近辺では丸彫りでこれだけの種類・質・量の石仏はお目にかかれません。さすがお江戸石仏ですね。阿弥陀様の更に奥、ベンチのある広場の側に3mはあろうかという明和九年(1772)六臂ショケラ持青面金剛塔が立っています。古いガイドに「百万遍講中が立てたものですが念仏講中が庚申真言も唱和している一例」と書かれています。お猿さんが可愛いので載せておきます。そういえばこの真中のお猿さんこそ牡猿のようですね。本堂左手の庭園の中に小さな貞享四年(1687)板碑型三猿文字庚申塔が佇んでいます。種子が不動明王のカンマーンを刻むとガイドに載っていますが磨耗していてちょっと肉眼では見えないと思うのですが。 今回はこれまでとしましょう。

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