2009/09/04

47E.伊那 高遠の石仏Ⅱ

諏訪から高遠へ抜ける国道152号通称杖突街道を北上します。石仏が集落ごとに、街道沿い・集落の辻・寺社などに集められて祀られています。行きつ戻りつで見つけた石仏なので道順どおりの記載ではありませんが、気になる石仏を駆け足で見てみましょう。尚、テキスト「高遠の石仏」は昭和55年発行第二版を使用しています。 47E-1.蓮花寺の題目塔群 西高遠の町並みを抜ける曲がり角の奥に石積みの上に立派な石塔群が見えます。「あれは・・・」と広い駐車場に入って見ると、大乗妙典九千部供養塔やヒゲ題目塔が勢ぞろいです。すべて仏教・日蓮宗関係であるのか石像は見当たりません。蓮花寺は江戸城大奥年寄絵島が27年間の閑居の後に弔われた菩提寺です。看板に大書されていますが、時代劇アレルギーの信人はパスしましょう。 47E-2.香福寺の咳の地蔵
蓮花寺から150mほどで左手に香福寺があります。当初は幸福寺と称したようですが現在は香福寺となっています。由緒は解説板をご覧ください。参道に大きな咳の地蔵堂があります。脇侍のような5体の地蔵に守られるように大きな地蔵の計6体(年不明)が見通しのよい地蔵堂に佇んでいます。咳の地蔵堂の由来も解説板に書かれています。地蔵堂の並びに2mを超す大きな享和二年(1802)二十三夜塔が立っています。その隣は寛政十二年(1800)文字庚申塔でいずれも自然石に刻したものです。参道石段を上がった本堂の脇に苔庭が広がります。息苦しいほどの緑一色に染められ思わず暑さもどこかに飛んでいきました。庭続きに玉宮神社が祀られ由緒書も立っています。お社の左上奥に年不明・不動明王が小さいながらも頑張っていて衛士のようです。紅葉時に訪れたいところですね。 47E-3高遠中学校入口の庚申塔 香福寺から150mほど進むと右下へ高遠中学校へ降りる道が分岐します。その先の道路より一段高い擁壁上に11基の石塔です。写真判定で推論しながら並べてみます。左から年不明(現代推定)甲子塔・元禄六年(1693)青面金剛塔・昭和55年庚申塔・元文五年(1740)青面金剛塔・享保拾年(1725)青面金剛塔・宝暦七年(1757)庚申塔・寛政十二年(1800)青面金剛塔・安政七年(1860)庚申塔・大正9年推定庚申塔・大正13年推定甲子塔・年不明庚申塔と思われます。厳密な石仏研究者から見たら邪道もいいところでしょうが、画像解析と文献比較からの推定作業も結構楽しくて夏バテや道路事情から近づけないときは威力があると思うのです。 47E-4.旧的場公民館の十王像 高遠中学分岐から350mほど進むと、左上に最初に現れる建物が旧的場公民館です。左へ上がる急坂を上ると駐車場広場になっています。滅多に見れない十王像を見たい気持ちで探し回りますが、広場や墓地に連なる山道をかなり探し回っても見当たりません。「移転か市教委に収蔵されたのか?」と気落ちしながら駄目元で覗き込んだ所に十王像がありました。旧公民館建物後ろ=道路沿いの崖縁を回りこんだ小さな空間に集められていました。が、ご覧のように金網に保護されて動物園状態です。永い年月を経てここに座って地獄の裁きを仕切ってきたのでしょうか。有難いことに名札が付けられています。探し回った甲斐があったと言うものです。裁判員制度が世の耳目を集めている最中ですが、この遠足シリーズでは後2回十王像に出会えます。十王の知識を仕込んだ上で、色々比べるのも楽しい作業でした。では、フルキャストに登場してもらいましょう。Wikipediaに記載があるように、右端の秦広王(初七日)から2列になって並んでいます。その後ろに初江王(十四日)です。次は前列に宋帝王(二十一日)です。後ろに五官王(二十八日)です。そして閻魔王(三十五日)で五つの王が並びました。中央に三体あるのですが名札はありません。2人の顔がついている石像は檀拏幢(だんだとう)で通称人頭杖のようです。杖の上部に「見る目」「嗅ぐ鼻」と呼ばれる2つの頭部がつき閻魔の裁きの時に善悪を感知するらしいです。。中央が閻魔大王を意味するのか、延命地蔵が座っています。閻魔大王は地蔵菩薩の化身といわれそれらしくあるようです。次にご存知、奪衣婆です。俗説で閻魔大王の妻と言われ夫婦で登場でしょうか?次から残りの五王が二列になって並びます。変成王(四十二日)が前列です。その後ろは泰山王(四十九日)となります。次が追加の審理を行う平等王(百ヶ日忌)です。続いて都市王(一周忌)です。お仕舞いが五道転輪王(三回忌)となります。この石仏は最後に登場なのですが、名札もなく氏素性が分かりません。十王の後ろには無縫塔が並びその後列は中央に元文三年(1738)名号塔・安永九年(1780)巡拝塔などが並んでいます。 47E-5.県道脇・栗巾の庚申塔 国道152号杖突街道を北上します。栗巾県道脇に道祖神などが石仏ホームのように立っています。17基の石仏石塔ですが伊那地方は文字塔が多いですねえ。我流ですが並べてみましょう。左から安政七年(1860)・大正13年庚申塔、文久四年(1864)甲子塔、寛文十二年(1662)庚申塔(下写真)、不明塔、明和弐年(1765)二十三夜塔、享保十二年(1727)庚申塔、昭和10年道祖神、文久六年(1866?文久は四年迄)・明和二年(1765)南無観世音塔、年不明馬頭観音像塔推定(下の写真)、不明塔(自然石)、不明座像塔、馬頭観音2基、年不明青面金剛塔、馬頭観音?が横一列です。集合写真の後ろの庇は雪避けのようです。 47E-6四日市場信号傍の石仏群 四日市場のバス停手前信号に40基弱の石仏石塔がきれいに(コンクリートで固められてと言う!!意味)祀られています。石積み三段に亘って並んでいます。前列は中央に双体道祖神で御幣を傘のように右男神・左女神で持ち合っています。昭和晩年に土中から出土したらしく「高遠の石仏」には記載がありません。他に文字庚申塔5基・「南無帝釈天王・庚申供養」塔1基・甲子塔3基・不明石塔(自然石)が並んでいます。庚申塔の前の荒い砂利に白く光る欠片は陶磁器の欠片です。定かではありませんが、庚申塔にお世話もなった茶碗や湯飲みをぶつけて供養する風習と何かで読んだ記憶があるのですが。ついでと言っては何ですが、この信号のすぐそば県道沿いに新しい平成15年双体道祖神が祀られていました。さて、三段に分かれた中段には残欠も入れて12基あります。不食供養塔3基・大乗妙典名号塔4基・顕彰碑1基・不明石塔4基となっています。上の写真、中段の右から3基目のとんがり石塔と4基目が不食供養塔です。右のとんがり石塔が享保十六年(1731)・その左前は元禄十五年(1702)の不食供養塔となっています。不食供養は「毎月特定日に食を断って三年三ヶ月懈怠なく念仏を唱えれば極楽往生間違いなしとする得意な修行」と日本石仏事典に載っています。「関西は名号板碑、関東・長野では大日像容・種子が多い」の記載もありますがここでは「妙法奉修不食供養・・」の名号となっています。次に上段は二十三夜塔1基・文字馬頭観音10基・巡拝塔1基・不明石塔3基などとなっています。年不明二十三夜塔とずべて文字馬頭観音塔である写真を載せておきます。先に述べましたが、この信号そばに新しい平成15年の双体道祖神があるので見ておきましょう。47E-7中条辻三叉路の石仏 順序が後先になりますが四日市場に行く手前に中条バス停があります。バス停傍に道標と変わった書体の道祖神と石祠を見つけました。道標には「左 江戸道」と入っています。他にはないかと探せばバス停沿いの川にかかる橋を渡ったさきの辻三叉路のところが塚のようになって常夜灯の周りに石仏石塔が並んでいますまたのその左並びに小型の大乗妙典誦読塔が5基行儀よく並んでいます。石塔で年代の読めるものは文久四年(1864)・昭和29年甲子塔、安政七年(1860)・昭和55年庚申塔など比較的新しい石塔群で特筆するものはありません。杖突街道伊那路にはこのように各村落に石仏が点在している風景が広がっています。 47E-8高遠町藤澤・北原先の庚申塔 更に北上すると北原地区です。国道沿いの直線道路沿い東側に変わった燈篭(常夜灯?)と約7基の庚申塔が並んでいます。荒町氏子中と読める石塔もあったので昔は荒町と呼ばれていたかも知れません。一番大きいうらなり風の庚申塔は大正9年です。右端の小ぶりの巳待塔は文化八年(1811)となっています。巳待は「己巳(つちのと・み)の日、あるいは前日戊辰の日・巳の日などに、講中・個人で遅くまで起きていて精進供養(祭祀)する行事、本尊は弁財天とされている云々」と日本石仏事典に載っています。 47E-9北原・旧八幡神社跡の石仏群 国道沿い東側ですが背を向けているので気づかないかも知れません。昔は八幡神社があったところだそうで三角状の広場になっています。今まで見てきたように綺麗にコンクリで固められています。24~25基程の庚申塔群です。天保六年(1835)寛政十二年(1800)安政七年(1860)などの庚申塔です。変わったものでは明治26年(1893)の蚕玉神碑を見つけました。日本石仏事典では蚕神供養塔の項目で「オシラサマ・馬娘婚姻伝承・馬鳴菩薩等に触れ、長野県では蚕玉様(こだまさま)と呼ばれ・・社号を持つ神社が祀られている」と記載があります。群馬県など蚕影様(こかげさま)などと呼びますがこちらではこだまさまと言うのも面白いと思いました。左のほうには大正14年(1925)二十二夜塔があります。月待塔の一種ですがこれも日本石仏事典によると「群馬県では七月二十二日に病気の全快などを祈ってお立ち待ちをする・・全快のときに約束した人数でお礼の立ち待ちをしそのあと飲食をした」と載っています。 47E-10的場大橋そばの石仏石塔群 国道152号杖突街道と高遠バイパスが分岐する的場大橋の傍に国道沿い東側に約30基の石仏群です。内訳は享保五年(1720)聖観音像塔、安永六年(1777)地蔵塔、10基の馬頭観音像塔、12基文字馬頭観世音塔、大乗妙典誦読塔2基、年不明妙見大菩薩塔、変わった自然石型名号塔1基、不明石仏・石塔各1基となります。聖観音塔は西国巡礼供養も兼ねています。地蔵塔は延命地蔵ですが船形光背の上部が欠けています。こちらは年不明の馬頭観音ですが造形的にはこれが一番見応えのある仏です。妙見菩薩は文字塔です。いつものとおりWikipediaで知識を仕込んでおきましょう。次は変わった名号塔と言いましたがむしろ六地蔵と言ったほうがいいかもしれません。寛延三年(1750)造立で中央連弁上に「南無阿弥陀仏」、脇侍が左右像形で刻まれています。更にその右に「南無預天賀地蔵」「南無放光王地蔵」、左には「南無金剛幢地蔵」「南無金剛悲地蔵」と六地蔵を構成する地蔵が文字で刻まれています。おまけに奉納西国三十三箇所とも載っています。いっぺんで全部やってしまうところが、地方の石工・住民の工夫?のしどころだったのでしょう。今回はここまでとしますが、記載地図は場所の見当を付ける程度のものとご理解ください。

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