2009/09/18

49E.伊那 高遠の石仏Ⅳ 三義から秋葉街道

平成16年伊那市・高遠町・長谷村が合併して(新)伊那市となりました。そのため今回は旧高遠町三義地区・旧長谷村地区の字地を巡る標記となっています。
ガイドブックは昭和55年「高遠の石仏」第二版と石仏地図手帳長野編を参考にしています。尚、三義山室地区方面では原組バイパス開通で道路事情が激変しガイドの石仏所在地標記が景観と全く一致していないことを予めお断りしておきます。

49E-1板山多目的集会所(正法寺門前)の石塔
前回の昌法寺から杖突街道に戻り約500m南下します。長藤(おさふじ)診療所方向へ左折して進めば道は山際に正法寺門前を過ぎていきます。下の写真では石段正面が正法寺でその右は板山多目的集会所となっています。正面石段右の斜面に17基ばかりの石塔が建っています。ほとんどが南無妙法蓮華経の題目塔か経典読誦塔です。傷みが大きく造立年代などは読みきれません。下左の写真「奉唱寒題目・・」となるところの「唱=口日を日の上に重ねる」書体が面白いですね。右写真で左端の石塔は明和六年(1769)「奉誦三寒 惣持品五千巻供養」石塔ですが三寒とは何か?ですね。

49E-2高遠町中屋村中の石仏
正法寺の前を通って素掘りの小豆坂トンネルを抜けると県道211号線です。T字路に突き当たり左折して北上します。約1km進むと中屋村中(なかやむらなかという小字)への橋があります。細い道路を上に詰めると車のすれ違いも出来ない道路沿いの斜面に石垣を築いて石塔が祀られています。中央の道祖神を見たくてやって来ましたが、ちょっと分かり辛いですね。「道祖神」の文字の中に剣・宝珠・錫杖等の仏具装飾を施した道祖神なんですが。らしく見えたでしょうか。左の小さな石塔は天保十一年(1840)などの文字馬頭観音3基です。道祖神右は年不明「寒念仏」塔、昭和53年水神塔・天保三年(1832)馬頭観音像塔などとなります。49E-3三義荊口(みよしばらぐち)・(旧日向・道祖神)の石仏
県道に戻り約500m北上すれは三義荊口地区の集落ですが、集落手前の道路沿いに15基の石仏です。(実際は県道に戻り南下約500mの県道沿い北側に所在)構成は文字庚申塔2基・馬頭観音像塔3基・文字馬頭塔3基・甲子塔2基・道祖神1基・昭和14年水神宮1基・水雨天塔1基・昭和15年大山住尊1基・不明像塔1基となります。年代は新しいものばかりのようで、文化年間の馬頭像が古いくらいでしょうか。写真左方の庚申塔は昭和55年です。ところで水雨天は初出でよく分かりません。日本石仏事典第二版73頁の水天の項目・223頁水神塔項目にも記載はありませんが、「水天供養では雨乞いを祈願して行われるので・・」との表現があるので「水雨天」もローカルではあるのかなと思います。大山住尊も初出ですが、どこかで見かけたような気もします。かといって資料的には見当たらず「高遠の石仏」にも採集漏れとなっています。相模の大山は一名雨降山と呼ばれ降雨の御利益で知られていますが「大山石尊大権現・阿夫利大神」などの表現が一般的なので違うんだろうなあ、山の神塔の一種かなあ等々と思いあぐねています。

49E-4三義山室・那木沢橋際の馬頭尊
県道211号を更に南下すると那木沢橋の手前道路際に石仏が14~15基ならんでいます。お盆の頃で石仏の前には各々紙コップにお水がお供えしてありました。村人の信仰が今も息づいています。この石仏群は風雨でかなり傷んでおり残念ながら像容もはっきりしません。テキストでは宝暦六年(1756)~明治45年馬頭観音像塔9基や髭題目塔などがならんでいるようです。

49E-5三義山室・旧宮原大橋の大黒天
那木沢橋を約1km過ぎ地区集会所らしきところの山側斜面に7基ほどの石塔があります。(テキストでは宮原大橋との表示ですがそれらしきものはありません)安政七年(1860)など庚申塔3基、昭和59年などの甲子塔3基、文久四年(1864)大黒天塔となっています。大黒天はWikipediaでお勉強しておきましょう。

日本石仏事典第二版の大黒天の項目では「造立目的は甲子待の主尊・福神信仰の二つがあり、・・・文字塔では自然石に「大黒天」と刻んだものが一般的・・幕末以降が大多数・・・山形群馬栃木東京神奈川長野静岡などに分布・・」と載っています。次回は立派な大黒天像をご覧いただけると思います。

49E-6新井集会所前の道祖神と原遺跡
更に南下して川久保橋手前右手に新井集会所があります。年不明文字道祖神と現代の手つなぎ双対道祖神がた てられいます。県道芝平高遠線原組バイパスが平成10年に完成した折に造立されたのでしょう。川久保橋を渡った先にはこのバイパス工事で発掘調査された原 遺跡の概要説明と「翔山室」の碑が建てられています。原遺跡についてはこの解説板をご覧ください。49E-7原駅辻の「さいの神」
「高遠の石仏」で原駅とはバス停を指しますが、バイパスの原入口バス停とは異なります。原入口から西側山室川へ下った先に物置状のバス停があるのが原駅です。実はバス停前にあるのでなくバス停の先T字路を右に20mほど進んだ田圃の擁壁沿いに立てられていました。7基の石仏のうち見たかったのは唯一つ。何かお分かりでしょうか?実物を見て本当は石仏信人も????寛政四年(1793)「さ以の神」碑であります。ひらがなで刻まれたサエノカミ碑は極めて珍しいのですが、テキストの写真から時代を経てこの荒れた碑面を見ることになったのは実に痛ましいですね。Wikipediaでは岐の神(チマタノカミ)として述べています。ところで日本石仏事典第二版の塞神塔(サエノカミトウ)では「塞神を当てたのは平田篤胤で・・彼は庚申信仰を平安初期の延喜式道饗祭に比定し・・京都の守護を祈願する儀式・・庚申造立時に塞神三柱の御名を彫り付けを提言・・埼玉県行田市周辺で在来庚申塔の1/3が表面を塞神に改刻されていて・・明治初年の忍藩の神仏分離策の落とし子で特異・・」と興味深いことが記載されています。「それを推し進めたのが篤胤没後の門人で明治二年の寺社掛木村御綱による」ことをこの項を記述したA氏が立証したと高らかに述べてあります。

49E-8福寿草の郷(非持山)碑傍の月待塔
場所が判然としませんがこのあたりは伊那市長谷の非持山(ひじやま)の裾を巡っている県道沿いです。その山側(東側)に平成元年福寿草碑を立てた路側帯がありその碑含め9基の石塔が並んでいます。目に付いたのはずばり年不明二十二夜・二十三夜・二十六夜塔であります。一石で三度おいしいのであります。特に二十六夜というのは初出かもしれません。尚、テキストでは宮沢新田下との標記がありますが多分移設されてここへ来たのでしょう。

49E-9長谷・中非持の徳本塔
非持の交差点に出る手前少しの区間細い道路が続きますが、道路巾が変わる地点カーブミラー傍に11基の石塔です。左から庚申塔・題目塔・寒念仏塔・庚申塔3基が並んでいます。次は大きな昭和55年庚申塔です。寛保三年題目塔・年不明二十三夜塔・安永六年(1777)寒題目修行塔です。カーブミラー傍で右端が年不明の徳本塔ですが、花押もそろっているところから本物だと思われます。西高遠・満光寺にも徳本塔が存在するようなので彼が当地へ布教に来た際に造立されたのでしょうか。

49E-10長谷・中非持の諏訪神社
県道211号線が国道152号線に突き当たる交差点側に諏訪神社があります。
宝くじ助成金で作った公衆トイレと遊具のある駐車場が傍にあります。特に変わりない神社ですが、水祖神碑と金山宮石祠を見つけました。水祖神碑は水神塔(すいじんとう)の一種と思われます。金山宮は不明ですがローカルなものなのでしょうか?

49E-11長谷・中尾辻の石仏群
国道152号線(秋葉街道)を進み、道の駅「南アルプスむら長谷」や南アルプスへの入山路戸台口を横目に一気に4kmほど南下します。三峰川を左にみて大きな中尾橋傍にに歌舞伎役者の像が刀を引っさげて立っています。この地は昭和61年に明和五年(1768)に興った中尾歌舞伎を復活させたことで有名です。ここを対岸に渡り中尾の集落をめがけて駆け上がれば消防団詰所のある広い中尾の辻に出ます。常夜灯と石塔石碑約40基弱が並べられています。案内板を見ておきましょう。分かりやすく書かれていますが、これが書かれた時代の面影を求めるには相当無理があります。残念ながら傷みが激しく識別すら難しくなっており、何らかの保護(日除け等)対策が必要と思われます。気づいた石仏を載せておきます。甲州ではどこにでもある丸石道祖神ですが、伊那の地では特筆されるようです。手の込んだ青面金剛と言われるのはこの写真ですが北総の石仏を見慣れているとちと大袈裟ではと言ってしまいそうです。額縁道祖神は思いのほかの小ささで像容を識別するのも難しいですね。見事な陽石四体はこちらでしょう。比較的見栄えがよかったのはこの馬頭観音です。優美なお姿と言われる蚕玉大神は分かりませんでした。こちらに墓標は1体も無かったので、蓮華座に乗っていますがあるいは下の写真が蚕玉大神石塔でしょうか?紀年銘が読めるものはほとんどみあたりません。こちらの石碑は正賀大神と読めそうですが何でしょうね?大聖不動明王と刻んだ石碑もありましたね。

49E-12長谷・宇津木観音堂の三十三観音
中尾橋から約3km南下します。途中、46E-5.市野瀬・円通寺の貞治仏で述べた市野瀬で県道212号日影笹子線が左に別れます。橋を渡ってすぐ、火葬場への案内にしたがって左折し山道を上っていきます。火葬場を過ぎると道は極端に狭まり小型自動車がやっとの山道になります。九十九折もありまさかこの奥に人家など考えられないと不安になる頃、ポツンポツンと人家が見えてきます。この山道の終点が宇津木・観音堂となります。解説板をお読みください。「宇津木薬師はツマ薬師・・行基菩薩がウツギに薬師菩薩を彫刻・・坂上田村麻呂建立のお堂に・・薬師如来が飛んで遷座・・」と念入りにあり難い由来を語っています。守屋貞治の右腕渋谷藤兵衛が線刻した三十三観音のお堂が改築されたのでしょうか、綺麗な新居となっていました見応えある線彫り観音のいくつかを載せておきましょう。松尾寺写馬頭観音です。聖観音です。千手千眼観音、如意輪観音を載せときます。傍らに異体字庚申塔がありましたが変わっていますね。
このあたりでやっと、伊那市を終えることが出来ました。貞治仏の故郷とはいえ、石仏石塔だらけで特に文字塔の大きさに圧倒された印象が強く残った伊那路の旅でした。次回はオマケで松本市四賀の石仏を単発で載せてみます。

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