2009/09/10

48E伊那 高遠の石仏Ⅲ 杖突街道

前回は高遠から杖突街道を北上しました。今回は杖突街道の奥にある片倉集落から南に下るルートで見てみます。そして途中から三義(みよし)地区を経て秋葉街道を南下の予定です。思いもよらない所に人家が開け石仏があることに驚きました。そんな記録です。地図の印は石仏所在地の目安表示とお考えください。 48E-1高遠町藤澤片倉・福伝寺の馬頭観音 杖突街道を高遠市街地から約10km北上すれば片倉の集落です。国道152号から西へ入り集落の細い道を伝うと曲がりくねった脇参道が福伝寺に続いています。無人の寺ですが形のよい冠木の松が正面を飾っています。丁度お盆の頃の訪問で狭い境内に盆踊りの櫓が組んでありました。その脇参道に面して石仏群が並べられていました。およそ27基くらいですが、かなり風化していて判読できないものが多いですね。気がついたものをあげておきます。右端は年不明・寒念仏塔です。「寒念仏は寒中三十日間、寒夜に諸所を巡りながら鉦をたたき念仏を唱える行法と講中が村堂に集まって和讃・念仏を唱える二通りがある。江戸中期以降各地に造塔された。」と日本石仏事典に載っています。とはいえ、今回は初出の石塔です。年不明ですが憤怒相がよく出来た三面の馬頭観音はこちらです。吹きさらしの中によく耐えています。この塔の後ろに元禄七年(1694)西方南無無量佛世尊と刻まれた石塔があります。頭部に大きくウハッキュウの合字らしきものを刻んでいます。面白いのは通常石仏本などで示される「烏八臼」の字が「八臼烏」のように刻まれていることです。日本石仏事典第二版371頁記載にある久保説「梵字タンを漢字に表したもの」という合字の順番が入れ替わったものと理解され充分納得できる気がします。極めて珍しいと思うのですが。(追記・・別に珍しくも無くてこちらの表示の方が多いようだと後で気づきました)下の写真は貞享五年(1688)六臂合掌型青面金剛像塔です。台石に三猿を刻みますがその両脇を二鶏が連なっていて面白い構図です。正面山門を入ると左に大師塔、右に如意輪観音塔が小さなおで迎えです。本堂右奥に、地蔵六面石幢と「経王一石一字供養」塔が並んで立っていました。48E-2高遠町片倉・道祖神の石仏 福伝寺から南下すると北片倉バス停そばで道路西下にある秋葉山の常夜灯が目に付きます。矢印付で道祖神と標識も備えてあります。ここがテキストでは中組どうろくじんと名づけられた庚申塚のようです。2基の双体道祖神・8基の文字庚申塔・2基の甲子塔・聖徳太子塔・陽石の計14基の石仏石塔が並んでいます。服装で男女が区別できる手つなぎ道祖神はこちらですが、テキストではどうろくじんと表記しています。もう一つは土中にあったものを掘り起こしたもので、手つなぎが判別できる程度の寄り添い姿になっています。書体の面白い庚申塔は左安政七年(1860)・右寛政十二年(1800)の庚申年の造立です。傍らに立派な陽石があるので下の写真を載せておきましょう。この塚の道路前の藪に「天満大自在天神堂」と刻んだ石塔を見つけました。きっとこの藪中にお堂があったのでしょう。48E-3高遠・薬師堂の双体道祖神 薬師堂の集落の分かりにくい辻の叢に道祖神が埋もれています。年配の村人に教えていただくのが正解です。はびこる雑草を押し広げて発見したのがこちらの道祖神です。村道の雑草に覆われた辻でL字配置に置かれています。 こちらは女神がお神酒をもっている道祖神です。もう一方は右の男神の手と左の女神の手を互いに結び合っています。ほのぼのとした暖かさを感じる道祖神です。 48E-4高遠町藤澤の諏訪神社の石仏群 薬師堂からおよそ1km南下すると県道490号が東に分かれます。進めば左手の山際が諏訪神社です。高遠から来る場合は藤澤の町並みから火の見で右に直進すると諏訪神社に突き当たります。 諏訪神社の正面鳥居石段をはさんで左・庚申塔群、右・秋葉燈篭などが斜面に整備されて並んでいます。まず正面石段の両側には文化三年(1806)石灯籠、大正四年御即位記念・諏訪社と独特の金石書体で社柱が立っています。正面左斜面は石仏石塔アワアワ・ワールドとなっています。右から二つ目の大きな文字庚申塔はこう見えても安政七年(1860)の年代物です。左奥に文政六年(1823)疫病斎・鐘馗大臣の石塔が立っています。どうやら疱瘡除けの御利益で信仰されたようです。隣に板碑型の守庚申文字碑が立っています。三尸文言ははっきりしませんが三尸の文字は碑面から読み取れます。テキストを引用すると「七種妙供清浄身 人々禁?守庚申・夜深陣々春風寒 去々三尸何処隣」とのことでした。前列左は二十二夜塔で碑面下部に右江戸道・左諏訪道と刻んであります。見慣れた文字庚申塔が並びますが、奥の列に青面金剛塔を見つけました。何だか蛇持ちに見えるのですが、どうでしょう。延宝八年(1680)庚申年の造立の素朴な青面金剛ですが、右手が蛇持ちならばスゴイ。正面右の斜面はこんな具合です。秋葉灯篭の左、写真中央は碑面が磨き上げられた昭和59年の現代庚申塔ですが矢張りデカイですね。 境内に入って社殿右にも木製明神鳥居の奥に大小の石祠・石灯籠がほぼ横一列に並んでいます。鳥居から左にはみ出した石灯籠は宝暦六年(1756)、鳥居の中・中央に見える燈篭は明和三年(1766)造立です。石祠は年不明でほとんどが稲荷大明神を祀ったと思われます。ここから右手に進むと無縫塔など石塔が整然と並んだ一角があります。小さな文字馬頭が8基ほど、隣に明和八年(1771)馬頭観音像塔がありました。下の写真、中央は「南無聖観世音」となっています。その左に小さな宝暦十三?年(1763)馬頭観世音像塔さらに左隣は安永三(1774)百万遍供養塔となっています。この前を右方に進むと地蔵堂があります。傍らに笠の無い地蔵六面石幢が立っています。他にも廻国塔や明治己歳(一体何年でしょう、己歳は5回あるんですが)と彫られた馬鹿でかい馬頭観世音塔があったりします。 48E-5高遠町塩供の花模様道祖神 前回の四日市場から約1.5km南下すると、守屋貞治が生まれた塩供(しおく)の村落です。桜の木がある山際の敷地が旧塩供集会場跡です。東の斜面に沿って石仏石塔の群集です。その中で一際目立ったのは、これが見たくてやってきました花模様道祖神です。明治・大正・昭和にかけての甲子塔・文字庚申塔・馬頭観音塔が大量に並んでいます。大正11年二十二夜塔と享保十七年(1732)巡拝塔もあります。文久四年(1864)線彫馬頭観音ですが変わっていますね。ここにも蚕玉大神碑がありました。48E-6高遠長藤・野笹多目的集会所前の石塔群 塩供から約1.6km南下すると西側は野笹地区です。見晴らしのよい高台に野笹集会所と八幡神社があります。その前に石塔が東を向いて並んでいます。正面のデカイ庚申塔は大正9年・甲子塔は大正13年です。庚申塔左・年不明の道祖神も書体が面白いですね。前列は庚申塔・甲子塔が主流ですが、後列に白龍不動明王碑なるものがありました。テキストでは制×迦童子・×羯羅童子と刻字もされていたようですが見忘れました。残念。この地区での猿田彦碑も珍しいと思います。
48E-7高遠長藤・中村、昌福寺の十王像 野笹と国道を隔てて向かい合うのが中村地区です。中村入口から集落内道路を上り詰めた所に昌福寺があります。車1台がやっと通れる道で昌福寺に行き着きます。無住とは言え立派なお寺の境内で十王を探しつつけること30分。あきらめかけた時に今回も幸運が微笑みかけてくれたようです。紫陽花の木陰から垣間見えた奪衣婆が微笑みかけて?くれました。以下、十三王(本地=十三仏)+奪衣婆+人頭杖かと思いますが載せておきましょう。どんな王か当ててみたいところです。
探し回って山際の墓地入口で下の写真のような石仏?を見つけました。鹿児島地方の石仏写真「たのかんさあ=田の神」とそっくりなもので気になるところです。48E-8杖突峠からの景観 今回は高遠・片倉から南下してきましたが、本来は杖突峠を北に越えて諏訪湖を見下ろし八ヶ岳を展望するのが石仏観光ルートとしてはベストでしょう。パノラマ写真に出来なかったですが、案内板と見比べて山岳同定などはいかがでしょう。案内板の向うに蓼科山が見えています。以下の写真は左の諏訪湖方面から右へカメラを振って編笠山まで写しています。今回はこれまでとします。次回は杖突街道から山一つ東の三義(みよし)地区から入り秋葉街道を駆け足で見ていきます。

0 件のコメント: