2010/03/11

68北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅻ(岩井)

鷲野谷地区の西隣が岩井地区になります。手賀沼南岸にあって平将門ゆかりの土地ということになります。

68-1勝矢堂
No.65の鷲野谷バス停から西へ向かい次の岩井バス停前につけば、その前にお堂のある一角があります。テキストでは勝矢堂という表示です。その謂れには説明がありませんが、次に回る将門神社に奉納された石造遺物の寄贈者に勝矢姓が散見されるので勝矢家のお堂という意味かもしれません。小さなお堂のそばにミニ5重石塔が置かれています。写真手前にある明治45年出羽三山・百番碑(秩父・坂東・西国巡礼)が立派です。明治42年大師道標など明治期の石造遺物があって、その頃に整備された新しい史跡のようです。

68-2将門神社の石造物
勝矢堂の角から将門通りと称する道路を北西方向へ村中に入っていきます。右手石鳥居が見えるとその奥に岩井青年館が建っています。よく見ると青年館の土間とも思える参道の先に石段が見えています。その奥に日本に唯一と称して名前はビッグですが、社殿はスモールな将門神社が鎮座しています。神社の謂れは解説板をご覧頂き、将門伝説などはWikipediaを参照ください。沼南風土記によると「この地区では成田詣りをしない、桔梗の花は植えない等の風習がある。又、将門の三女・如蔵尼が父の霊を祀ったとの起源は、茨城県坂東市(旧岩井市)にある国王神社の将門伝説と共通して意義深い」と述べています。Wikipediaの調伏伝説を参照してください。
さて、その将門神社は青年館の陰で窮屈そうですが社殿前には石造物が散在しています。上の社殿の写真で手前に写っている小さな石祠は文化八年(1811)雷神宮です。天保二年・三年(1831・32)の燈籠も右方に写っています。頭部にバンの種子を頂く宝暦十年(1760)水神石祠、種子サクを刻んだ文政七年(1824)奉需廿三夜供養塔石祠などはちょっと珍しいものです。文化十四年(1817)鹿嶋大神宮石祠や明治・大正の出羽三山塔・光明真言塔なども点在しています。
隣接するのが真言宗豊山派の龍光院です。後学のためにWikipediaで豊山派を載せておきましょう。

68-3龍光院の庚申塔(岩井庚申塔群)
長享二年(1488)創建といわれる不動明王を本尊とするお寺です。境内に「南無地蔵尊」の紅い幟が翻る参道の奥に平将門三女如蔵尼が一門を弔った地蔵堂があります。お堂の側にある手書きの由緒書を読んでおきましょう。お堂の側に文政十三年(1830)六地蔵六面石幢が建っています。200年足らずの経過位では像容は綺麗に残っているものですね。
地蔵堂の南側広場に「岩井庚申塔群」標柱が立つ石仏群落があります。標柱の記載「この場所は岩井と箕輪地区の境にあたる・・・」との解説があるように、この石仏群は元の場所(ローレルヒルズ手賀の杜と呼ばれる大団地)が宅地開発されるに伴い引っ越してきたものです。青面金剛像塔1基・文字青面金剛王塔7基・文字青面金剛尊塔2基・文字庚申塔1基の集団移住です。一番古い正徳二年(1712)の青面金剛は二童子付の豪華なものですが、左手ショケラのように見えないものは何を持っているのでしょうか?写真に載っているお堂の横の青面金剛塔は左から文化元年(1804)・天明四年(1784)・天保十四?年・安永四年(1775)となっています。天保塔の台石の三猿は右が走り猿となっていて面白いですね。他にも弘化四年(1847)山神宮碑や→印がついた道標「大井ヲヘテ柏流山・若白毛風早村・・」などがあって楽しくなりますね。

68-4旧道角石塔群
ガイドの表示は旧道角となっていますが、隣接する分譲墓地・柏湖南聖地公苑を目印とするのが分かりやすくて正解です。写真内にすべての石塔が載っています。下の写真正面左は文久二年(1862)太子宮塔・寛政五年(1793)青面金剛尊塔・宝永二年(1705)板碑型庚申塔の3基です。太子塔の台石に職人講中と刻まれています。手前左は「箕輪大井ヲ経テ柏ニ至ル・若白毛ニイタル」道標です。隣の黒い石塔は人差し指印の大師道・道標となっています。写真右上の竹垣から半身を見せているのは聖地公苑の現代の千手千眼観音です。

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