81-1風早北部小学校の庚申塔
県道282号沿いにある小学校の西隅に体育館があります。その体育館の沿って庚申塔など10基が並んでいます。左から弘化三年(1846)文字庚申塔ですが台石の三猿が全て左を向いています。右は宝暦九年(1759)大青面金剛塔で二猿ですね。続いて天保五年(1830)猿田彦塔で日蓮宗系の庚申塔です。右の文政十三年(1830)山神塔は碑面が剥離しています。真中に唯一のショケラ持ち青面金剛像塔は宝暦十二年(1762)の造立ですが崩落して像が不明となっています。唐破風笠石の大きな石塔は延宝二年(1674)庚申諸願成就の文字塔です。右隣は正徳三年(1713)帝釈天守護所を刻んだ庚申塔で二鶏・三猿つきです。嘉永四年(1851)南無阿弥陀仏の名号塔は味もそっけもありません。右端2基は馬供養で明治6年武州上岡写しの馬頭観音と明治37年日露戦没軍馬記念碑が並んでいます。種類も多く一度に学べるので、小学生に江戸時代民俗信仰を解説できる格好の材料なんですが。解説板が欲しいところです。
弘化三年庚申塔 | 左向き三猿 |
宝暦九年大青面金剛塔 | 二猿は初見? |
猿田彦・山神塔・崩落像塔 | 延宝二年庚申諸願塔 |
正徳三年帝釈天塔 | 嘉永四年名号塔 |
明治6年馬頭観音 | 明治37年日露戦没軍馬 |
81-2妙照寺の庚申塔
前回の福満寺の南西800mの位置に正応元年(1288)開創といわれる日蓮宗妙照寺があります。坂道の途中から山門に上る石段の両側に、日蓮宗系の庚申塔である帝釈天王を刻んだ髭題目塔など3基が立っています。石段左は現代版帝釈天塔です。石段写真手前のアジサイの花に隠れている寛政十一年(1799)帝釈天塔が胴から二つ折れの痛々しい状のため復刻したもののようです。
台石の三猿が今風に変化していますね。3基の真中は髭題目が書かれている寛政九年(1797)三界萬霊塔となっています。
石段を上がれば左にある大きな観音像にちょっと戸惑いますが、山門をくぐれば落ち着いた境内に納得です。手前の手水場に浄行菩薩像が祀られています。日蓮宗の四菩薩の一つですがWikipediaで確認しておきましょう。側にタワシが置かれていて直したいところをタワシで清めればご利益があるという、巣鴨刺抜き地蔵の日蓮宗バージョンでありました。珍らしいですね。このお寺は中山法華経寺から鬼子母神を請来し、鬼子母神堂に祀っています。鬼子母神は安産・子育てなど女人に信仰されました。本堂左手前に鬼子母神女人講42名で寄進した慶応元年(1865)手水鉢が置かれています。このお寺には他にも龍神堂なるものもあり結構遺造物を遺しています。日蓮宗寺では題目塔ばかりが多く石造文化財は不作の所が多いのですが、こちらは民意の動きに従っているのでしょうか。境内に八幡神社も勧請しなかなか賑やかです。東側墓地方向の坂道に寛政四年(1792)道祖神と安永八年(1779)十九夜念仏供養塔が並んでいます。ガイドブックには二十三夜塔3基と載っていますが、本堂境内では目にしませんでした??本堂裏で「○○家畜生の墓」という新しい塔婆を見つけたりして、結構面白い時を過ごせました。(本寺の由緒などは、HP 妙照寺に詳しい案内が載っています)
尚、妙照寺前の小さな池にも明和六年(1769)弁財天石祠が祀られています。
81-3浅間神社
妙照寺の西南西500mの国道16号沿いにグーグル地図上で浅間神社の表示を見出せます。こちらは前回の福満寺の境外地となっています。国道16号が出来たために参道を埋められたのでしょう。登拝手段は16号の歩道からの不便なアプローチしかありません。その石段参道も手摺を埋められた不思議なトマソン(無用の長物)となっています。石段を上れば転びのない神明系鹿嶋鳥居が立ち、その奥山上薄暗い木立の下に、雨除けを付けた明治12年木花開耶姫命の立派な角石柱が祀られています。右手にある慶応元年(1865)石尊大権現碑は大型の自然石形状のものです。左側に浅間社の小社と宝永三年(1706)不明石祠が置かれています。不明石祠の左側面に「奉造立庚申講諸願成就二世安楽所」と刻まれています。気になる所です。
81-4中ノ橋の架橋石碑
(1)国道16号線を大井の交差点で南下し県道282号を西進します。中ノ橋のバス停が右手に見えますが、奥まったところに像容の崩れた唐破風笠石の享保年間青面金剛塔が祀られています。バス待の人には気づかれていないでしょう。撮影したデータが見当たらないので、気になる方はGoogle Street Viewでご覧ください。それらしきものが映っているかもしれません。
(2)架橋石碑は大井交差点から約700m西進した㈱ヨシケイの建物がある三叉路手前の歩道に行儀よく並べられています。それこそGoogle ストリートビューで見ると電信柱の奥に如意輪観音像1基と5基の石碑が並んでいます。
「沼南地域の命綱とも言うべき苅込橋の架橋に関する石碑が・・・・いずれも沼南における交通史を知る上の資料として貴重な造立物」と「沼南町史」に書かれています。
5基の石碑の中央の石柱が天保十四年(1843)苅込橋施工塔です。施主大井村中と碑文中央に刻まれ左右側面に近隣の鷲谷・布瀬・手賀村などが寄進しています。左端の明治24年架橋塔には「天保十四年まで土橋で、安政六年(1859)第2回目の竪板橋を架橋、明治12年数百枚敷石したが明治23年利根川出水で氾濫したため苅込橋が破損、交通量も増えてきたので明治24年に全面的に横板橋に改築した」と刻まれています。洪水による橋の破損で付近の村々の交通に支障をきたした事情が縷々述べられています。この明治24年石碑は裏向きで据えてあります。正面の碑面が読めなかったのは逆光のせいばかりでなかったようです。残りの石碑は明治12年苅込堤板橋敷石造立寄進記・大正6年苅込橋架橋寄付連名・大正13年工事紀念碑となっています。
左端の如意輪観音像は年代・経緯とも不明で導師が福満寺住職・念仏同行五十余人造立であるようです。首は後補ですね。
より大きな地図で 81北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(大井Ⅱ) を表示
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