2010/06/25

80北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(大井Ⅰ)

旧沼南町もラスト前になりました。北に手賀沼を控え谷津が入りこみ、南は国道16号が横切る農村地帯です。二松学舎大学キャンパスがが地区東部の山里に佇む静かな何もない?と思われる地区ですが、古くから拓けた土地なので様々な遺物に出会えます。そんな訳で容量が重くてどうもすいません。

80-1福満寺の准四国観音霊場
二松学舎大学へ向かう道路から西へ分かれ村中に入っていけば香取神社に突き当たります。その隣が四国霊場のお堂が壮観に広がる福満寺です。本堂参道は鐘楼の右を降りた先に下の写真のように広がっています。旧薬師堂に承和十一年(844)の「大井郷別当福満寺」棟札が張られていた程の古刹です。まずは南側道路に享保十四年(1729)創建の鐘楼門がありその右側の道が北へ向かって先ほどの本堂に向かう参道につながります。手賀沼八景「大井の晩鐘」の立て札がある楼門の石垣は万延元年(1860)大井・五條谷・箕輪村の69名の寄進、その名前が縁石に刻まれています。門前、道路に向かって5基の十九夜如意輪観音塔が並んでいます。
向かって右から宝暦十三年(1763)十九夜念佛塔同行75人、貞享二年(1685)十九夜念仏衆逆修為・同行34人、元文三年(1738)十九夜念佛二世安楽・同行120人、寛文十三年(1673)十九夜念佛逆修善根也塔と続き、左端の大正六年十九夜念佛塔・同行75人は如意輪観音像が剥落しています。地区念仏講が広く信心されていたようです。坂を下る参道脇には86番・87番・88番の准四国霊場の小堂が並んでいます。23番と24番の小堂の間から境内に入ると右手に宝永四年(1707)六地蔵が祀られています。その両脇に四角柱の竿で上部に観音坐像のある宝永三年(1706)燈籠が立っています。観音堂境内となる左手には馬頭観音堂と太子堂が並び、その奥に准四国八十八箇所霊場の小堂が蜂の巣箱のように並んでいます。
明治38年馬頭観音
文化九年聖徳太子
明治11年篤信の人がお大師霊場からお砂を頂いてこの准四国霊場を創立したとペンキ塗り解説板に説かれています。境内には弁天池もあり、天保十一年(1840)寛永寺のある不忍池から勧請した弁天様も祀られています。池の周りには粟島大明神も祀られ、隣接の香取神社とともに大井地区の古くからの民間信仰の集積地であることが分かります。
参道右の講堂前に、下の写真のような立派な石造物がたてられていますが一体なんでしょうね。どうやら現代版曼荼羅のようです。中央の球形には中台八葉院と呼ばれる胎蔵界曼荼羅の中央部が刻まれています。大きな円には胎蔵界大日如来の種子アーンクが刻まれています。周りの葉には四方如来と四方菩薩が刻まれています。下の葉は無量寿如来(種子アン)、その右は文殊菩薩(種子ア)、左は観世音菩薩(種子ボ)、その左は天鼓雷音如来(種子アク)、その反対側東にあたるのは開敷華王如来(種子アー)という具合に並んでいます。
左右の石碑は十三仏を種子で刻んだものです。頭部に胎蔵界大日如来の五点具足の種子アを光明真言で囲んでいます。そして右上から不動明王(種子カーン)から始まり左下虚空蔵菩薩(種子タラーク)で終わっています。十二仏は生まれの干支に当てはめたり、忌み日の主尊にしたりと本当はなじみの深い仏教キャラクターですが、こうやって種子で表示してあるのも悪くない感じです。もっともこうした石像物こそしっかりした解説板が欲しいところです。
福満寺にはまだまだ一杯見所があるパワースポットです。楼門から下る坂道にその霊験(功徳?)あるマンスリースケジュールが掲示されています。先ほどの観音堂境内に戻ると観音堂左横の金比羅堂に上る石段傍に、日暮玄蕃の墓というものが記念物として表示されています。ところで解説板にのっている日暮玄蕃なる人物が有名人として解説されていますが、いかなる人物か意外に分かりません。水戸藩御鷹場であった小金原の小金御殿留守居役で江戸小石川馬市を宰領した豊かな武士(郷士?)であったようですが非常にローカルですね。<HP千葉一族から参考引用>
それよりも寛文四年(1664)邪宗門御吟味にかけられた日蓮宗不受布施派の記述のほうが興味深いですね。隠れキリシタンのような歴史はWikipediaでじっくりお読みください。平将門の愛妾「車の前」が朝夕顔を映したといわれる「鏡の井戸」は倶利伽羅龍王脇の井戸跡のことでしょうか?
倶利伽羅龍王
平将門大明神
福満寺は古刹であるだけに境外地に、車の前五輪塔・阿弥陀様板碑(いずれも後述)など見るべきものも多くて興味が尽きないですね。

80-2大井の香取神社
福満寺の西隣が大井地区の鎮守様・香取神社です。元和元年以前(1615)の創建で経津主命を祀っています。経津主命はWikipediaの解説をお読みください。
道路整備で参道が削られるのにあわせ、昭和50年に本殿・幣殿・拝殿・など全面的に新築されています。社有地である字大六天・字天神山を処分し氏子浄財とあわせ60百万円余の費用をかけています。安永年間(1772~1782)の旧本殿は新造の鞘殿内に収納したそうで大掛かりな工事だったようです。整備記念の碑も読んでみるものですね。参道右に大杉神社と子安社・稲荷社・天神社の合社殿も新築されました。四脚門とも呼ばれる権現鳥居の先に朱塗りの本殿が鎮座します。大井の七戸の先住者は佐原の香取神宮辺りから渡来した経緯があるようで、七戸の紋章が新社殿に刻まれ社殿の権現造りは香取神社と同じであるとガイドに載っていますが、筆者は紋章を見落としたので未見です。参道が右に折れる所の正面に石祠が7基祀られています。右から天明三年(1783)大六天、延享三年(1746)大杉大明神、大正6年賀蘇山神社?・古峰神社?、文政八年(1825)石神大明神、不明二祠、明治41年天神社?が並んでいます。宅地化がそこまで押し寄せている地区で静謐な雰囲気に触れてちょっと意外でしたね。

80-3妙見様の車の前五輪塔
福満寺の南方200mの畑の中の椎木の下に、柏市指定文化財・車の前五輪塔があります。はっきり言って畑中のあぜ道の先にあるので見当をつけて行き着くしかありません。沼南地区最大最古といわれ鎌倉時代に比定される1.6mの五輪塔です。ここは妙見さまと呼ばれた妙見堂の跡地です。薄暗い大木椎木の下に弘化四年(1847)手水石や安政六年(1859)燈籠や明治7年妙見大菩薩塔が置かれています。伝承によれば、天慶三年(940)平将門戦死後、懐妊中の愛妾車の前は男子を出産した後で剃髪した尼となり、将門が信仰した妙見菩薩を祀るお堂を建てて菩提を弔いました。この地がその妙見堂跡地といわれています。

80-4阿弥陀様板碑
福満寺の北東300mの境外地にある阿弥陀様板碑も指定文化財となっています。民家の脇の奥まった竹林の下に、板碑を収納したお堂と脇にお地蔵さんと馬頭観音が祀られています。薬研彫りの全長1.8mもある弥陀三尊種子の下総式板碑です。鎌倉時代末期以降と解説板に載っています。下総型板碑の解説はWikipediaの板碑解説をご覧ください。傍らにある延命地蔵は寛文八年(1668)八月二十四日の地蔵盆の日に建立されています。
80-5道祖神神社?
阿弥陀様板碑を見に行く途中、畑の片隅で見つけた道祖神です。文化六年(1809)の造立ですが、ちゃんと祀られたお堂の前には鳥居を作ってもらっていました。神社とはちょっと違うような気もしますが、信仰されているようだから「まっ、いいか」という気になりました。

より大きな地図で 80北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(大井) を表示

0 件のコメント: