2010/08/03

82北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅰ

今回から旧沼南町の北に位置する我孫子市を巡ります。我孫子市は北に利根川、南に手賀沼を控えた東西に長い地形です。人口14万人で「北の鎌倉」とも呼ばれ、志賀直哉・柳宗悦など有名文化人芸術家と縁の深い街です。詳しい地勢はWikipediaで確かめておきましょう。
利根川の水運に恵まれ古くから開けたせいでしょうか、難読の地名も多くてびっくりしますよ。
クイズですが、次の地名はなんと読むでしょう。久寺家・都部・中峠・日秀の四つの地名です。
正解はクジケ・イチブ・ナカビョウ・ヒビリと読みますが、皆さんはいくつお分かりでしょう?私は一つも読めませんでしたが。
テキストは我孫子市史資料金石文編ⅠⅡ ・我孫子の石造物所在地リスト・故榎本正三先生の「河岸の人々の暮らし」・石仏地図手帖千葉編等を参考にします。
JR常磐線我孫子駅から東方にJR成田線が分かれています。細長い我孫子市をそのJR成田線と国道356号線が背骨のように貫いています。その東のはずれが今回巡る布佐地区です。

82-1網代場の観音堂
筆者の郷土の偉人・柳田国男は利根川対岸の布川で少年時代を過ごした縁で、ローカル誌に過ぎなかった赤松宗旦「利根川図志」を世に紹介し後世まで知らしめてくれました。「利根川図志」に「松尾芭蕉が鹿島紀行で布佐の鮭の網代の漁家に息(やすら)い・・・今は網代場の名を残せり云々」と記述があります。江戸時代迄は鮭の遡上でこの辺りまで漁場だったようです。その縁で網代場の字が残り、江戸への鮮魚輸送の中継点として賑わったようです。元禄年中に鮮魚輸送の荷宿や馬持ちがこの(馬頭)観音を祀りました。文化二年(1805)鮮魚商の隠居が布佐村内に坂東三十三観音霊場写しを設けましたが、面白いのはその石造物遺物があちこちに残されています。又、そのような環境のため鮮魚商に縁のある記載が目に付きます。よく知られているのは文化四年(1807)網代場若者中が寄進した手水石で、裏面に東京「魚河し」の追刻があり日本橋魚河岸との貴重な関連資料とされています。又観音堂の写真左にある昭和33年寄進紀念碑には、北千住・成田などの鮮魚商の名前がずらりと並んでいます。よく見ると鮪問屋・鯛問屋などの記載もあって面白いですね。
さて、石仏ですがこちらは十九夜塔がしっかりしています。
安永八年(1779)十九夜塔
享和二年(1802)十九夜塔
下の写真で三十三観音写しは右から十一面観音塔十二番寺音(慈音)寺写・十一面観音塔十七番いづる(出流山)満願寺写・千手観音十九番大谷寺(残欠になり判読不能ですが榎本氏テキストから参照引用)・聖観音二十七番銚子円福寺写と並んでいます。
他にも明治12年廿三夜塔・慶応の馬頭観音塔・大正6年子安塔などなどが祀られています。尚、お堂内には魚籃観音も祀られているそうですね。

82-2布佐の水神社
我孫子市史研究センター発行「手賀沼べりの道今昔」に収載の近江礼子氏論文「手賀沼べりの水神信仰」によると、我孫子市内に水神社は現存6箇所です。布佐の水神社は文化二年(1805)以前の創設で「杉山家の氏神カ、天地水神と称す・・」と載っています。祭神は罔象女神(みつはめのかみ)です。水神社と表記しましたが、お堂の額は「水神宮」となっています。小さな公園の片隅に昭和4年の明神石鳥居があります。お堂の側、敷地の塀際に石仏が窮屈そうに並んでいます。写真手前から大正6年阿夫利神社碑・昭和4年佐留多彦大神碑・明治17年月讀尊碑・明治11年文字庚申塔と続きます。佐留多彦大神は三猿が付いていませんが庚申塔の神道系バージョンと理解しましょう。石塔は諏訪石祠・不明石祠・文化二年(1805)「當所霊場三十三番水神宮」・同年「當所霊場三十二番諏訪宮」・明治七年庚申塔?・年不明「水神」碑で合計10基の整列です。利根川沿いの町・舟運関係などで水神様に祈る生活が続けられていたのでしょう。近世・近代になっての町の賑わいを、仄かに留めている姿が哀れにも思えますね。

82-3延命寺の六阿弥陀
観音堂から国道356号線を700m西進すると道路右に真言宗豊山派延命寺があります。入り口に5基の石塔が固まって置かれています。まず門柱脇に文政十年(1827)「六阿弥陀第弐番」の石柱があります。これは総州六阿弥陀詣の札所第二番を表示しています。「総州六阿弥陀詣」は文政年間(1818~1829)に対岸の利根町布川の住人星野一楽によって創設された札所巡りです。一番は布川にある間引き絵馬で有名な徳満寺です。二番がこちら延命寺です。三番は10-5で紹介した印西小倉の泉倉寺ですね。時間のある方は2008年12月のNo.10をご覧ください。四番は第6回-1で訪れた大森の長楽寺です。石柱は載せ忘れましたがこちらには二童子付の青面金剛庚申塔がありました。五番は第13回-4の竹袋の三宝院です。入り口に五番石塔がありましたね。六番は茨城県に戻り布川の不動堂となっています。途中の印西市発作に「六阿弥陀回向所」標柱が発作最勝院にありましたね。
さて、石塔は左から天保四年(1833)子安塔ですが像塔の劣化が進んでいて紀年銘はガイドからの転記です。隣は昭和24年門柱建立記念碑と思われます。立派な廿三夜塔は「龍舎辛未文化八・・」表示で文化八年(1811)建立です。「龍は木星を表し一年に一周行するので年の終わりを意味するが年号を強めるためにも使用される・・」と日下部著石仏入門に載っています。右端の一番大きな名号塔は天保五年(1834)です。布佐河岸は舟運が良いのでこれだけ立派な石材を運んでこれたというわけですね。
さて、境内は整備されてガイドブックにあるような石造物群は見当たりません。庭の内に見つけた補修された十九夜塔は文化五?年と見たのですがガイドにはありません。ガイドにある元禄七年・正徳三年の如意輪観音十九夜塔はどこにいってしまったのでしょう?

より大きな地図で 82北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅰ を表示

0 件のコメント: