2010/08/10

83北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅱ

我孫子市の東端の布佐から西進するルートで石仏探訪を進めましょう。

83-1愛宕神社下の石仏
延命寺から50m西進すると愛宕神社の鳥居と石段が左手に見えます。神社敷地の斜面の通路沿いに庚申塔などが9基ほど並んでいます。写真の斜面奥上部に愛宕神社の朱色の社殿が見えています。これらの石仏石塔は東消防署脇や布佐中学裏などにあった石塔も持ち寄って並べたようです。取り立てて面白い石仏はありませんが、一通り見ておきましょう。
左から嘉永五年(1852)文字庚申塔・文化二年(1805)観音経供養塔・明治14年馬頭観音塔・不明石祠・文化三年(1806)馬頭観音塔残欠・文政十三年(1830)文字庚申塔・文化三年(1806)百観音巡拝塔・嘉永二年(1849)普門品塔・弘化五年(1848)文字庚申塔となっています。碑面が荒れていて紀年銘など読み取れない石造物は興味が半減するのが辛いところです。嘉永二年普門品塔は「嘉永二龍集」と刻まれているらしいのですが。

83-2愛宕神社の石仏
先ほどの神社下の手前に愛宕神社の石段があります。愛宕信仰をWikipediaで見ておきましょう。石段を上ると2基の石祠が置かれています。右の小ぶりの石祠は元文三年(1738)疱瘡神石祠です。左の石祠は文政十三年(1830)子安大明神石祠?と推定されます。これもテキストと照合しないと分からないくらいに碑面は荒れています。進んでいくと境内の拝殿脇に石祠が立派に祀られています。弘化二年(1845)石尊大権現石祠です。大天狗子天狗と刻まれているので大山でなくて富士信仰によるものでしょうか。今まで見てきた石仏は全部が19世紀になってからのもので、このあたりはその頃から人口や村落増加となり始めたのでしょう。

83-3共同墓地の石仏群
先ほどの愛宕神社下の石仏が並んでいる坂道を登っていくと、共同墓地が左手下に拓けます。入り口に六地蔵などが迎えてくれます。六地蔵は雑草に隠れそうな小さな地蔵です。野辺にされされて荒れていますが、れっきとした元文四年(1739)頃にに祀られたお地蔵です。柄香炉を両手で持った法性地蔵が享保十九年(1734)、右手錫杖・左手如意珠持ちの延命地蔵が元文二年(1737)で残りのお地蔵が元文四年の紀念銘とテキストに載っています。筆者は左端の地蔵で元文四年を読めましたが、全部は読みきれませんね。六地蔵のならびに十九夜塔が3基並んでいます。左に寛政六年(1794)と文化三年(1806)の十九夜如意輪観音塔です。六地蔵の右にあるのが寛延四年(1751)の十九夜塔になります。六地蔵の左後方に小さな文化九年(1812)の聖観音がひっそりと佇んでいます。普門品一万巻供養の文字が刻まれています。金石編に十九夜・聖観音と載っていますが十九夜の根拠は何でしょう?後で分かりますがこの先にもう1基の文化九年十九夜塔があります。調査時に重複誤記したものと思い違えて十九夜を付け加えて表示したのではないでしょうか?
という訳で墓地内に入り坂を下り始める所の左手に6基の石仏が祀られています。左端の角塔几帳面は天明七年(1787)大乗妙典日本廻國塔です。右手前にあるのは當所霊場十六番と表示がある札所塔です。奥のほうに十九の文字が見えているのが先ほどの写真の文化九年十九夜如意輪観音塔です。手前の赤色は寛政九年(1797)馬頭観音塔です。六臂の馬口印でない合掌手です。右端の大きな延命地蔵が元禄十三年(1700)「奉造立百堂念仏供養・・」の銘をもつ百堂念仏塔になります。日本石仏事典からの引用すると「農閑期に村人が講を作り、村中および近隣の祠堂百箇所を数日間かけて巡拝し、念仏を唱える行事である。百堂を巡拝し終えることで村人の願望が成就され、供養塔が造立された。関東に二、三ヶ所局地的に遺存する。・・埼玉県三郷が巡行に重点を置くのに対し茨城県岩井・守谷は念仏を主眼とする・・」と述べられています。「続房総の石仏百選」にもI副会長が「埼玉・茨城・千葉県下で180基余が確認されている・・・利根川水系独特の念仏塔である」と記されています。その特色ある石仏がこの布佐にも存在しているというわけです。
今回はこれくらいにしておきましょう。

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