前回の勝蔵院のすぐ近くにある竹内神社を見てみます。テキスト「我孫子の石造物所在地リスト」に77点の記載があります。当社には高台稲荷社、谷山権現、神明社、御嶽社、三峰社、天神宮、白山社、琴平宮、水天宮などが合祀されています。明治の神仏分離令や明治40年頃行われた村内小祠が合祀され膨れ上がったのでしょう。
85-1竹内神社について
我孫子町史によると、前々回83-2で回った「愛宕神社は竹内神社の元宮」と言い伝えられており、社伝では文禄二年(1592)に祭神天迦具土命」となっているそうですが、この祭神については良く分かりません。火之迦具土命は記載あるのですが、天迦具土命ではWikiにも「日本の神様事典」にも載っていませんね。それはさておき、竹内神社へ徒歩で正面参拝を果たすには、前回の勝蔵院前を西進して回りこみ300mで石鳥居の参道にたどり着きます。車の場合は国道356号から布佐小学校を目指し、校庭に入り込むように南下すると境内となります。
85-2布施河岸関係の石造物
拝殿左のほうに慶応三年(1867)石鳥居と手水石が置かれている一帯が高台稲荷社でしょう。手水石の正面には「日本橋魚がし」とでかく刻まれています。裏面を見ると万延元年(1860)庚申年の寄贈です。利根川を遡って布佐河岸で陸揚げされた鮮魚は、駄馬に積み替えられて藤ケ谷の常夜燈を見ながら鮮魚街道を松戸へ向かいました。そして又江戸川の舟運で日本橋の河岸まで送られたのです。拝殿右脇を奥に向かいましょう。布施小学校からの裏道となるあたりに石造物が散在しています。この中に文化元年銘(1804)水天宮が置かれています。立派な基礎石の正面には「舩持中」の表示があります。榎本正三氏「河岸の人々の暮らし」を参照すると文化元年創立の石祠が傷んだためか明治二十二年に再建された由緒がある事が分かります。ぞの側に火袋はつぶれてちょっと不恰好な文化三年(1806)常夜燈があります。象頭山金比羅大権現と竿部に刻まれています。中台にも船中安全と刻まれていて舟運関係で手厚く信仰されてきた証と思われます。それにしても童謡で「金比羅船船、追手に帆かけて・・・・」と歌われた象頭山金比羅大権現が言葉通りに見られるのは珍しいですね。
85-3合祀されているお社など
本殿左の高台稲荷社前に魚がしの手水石がありましたが、その辺りには稲荷の石像・小祠が転がっています。
写真の右手・明神鳥居は慶応三年(1867)で稲荷社の参道となっています。狐像神使は安政四年(1857)で石燈籠と同年です。
稲荷社の右隣は天神社です。
明和二年(1765)天神宮石祠が祀られています。
更に拝殿右方には御嶽社の社殿があり、境内の大木に六根清浄と書かれて注連縄が張られています。この木の手前に元禄九年(1696)鎮座で昭和59年移転してきた神明社が置かれています。拝殿右脇の通路沿いに十五夜講中が石坂再建記念で寛政八年(1796)手水石を寄進しています。
通路沿いは文政五年(1822)三峰神社石宮や大正十年石祠が並んでいます。25回登拝記念碑も昭和30年建立で昭和の中ごろまでも盛んな信仰行事が垣間見えます。
85-4その他の石造物
先ほどの高台稲荷社の前に大きな神社改築碑がありますが、その後列に庚申塔が3基並んでいます。
左から安永八年(1779)青面金剛玉塔、享保七年(1722)ショケラ持青面金剛像塔、安永二年(1773)青面金剛尊塔となっています。
境内を良く見ると竹内神社で最も古い正徳元年(1711)第六天石宮石祠なども置かれています。
変わったところでは先ほどの御嶽神社の裏側に霊神碑が立ち並んでいます。日本石仏事典の霊神碑の項は「木曾御嶽山の信仰団体御嶽講には御嶽山内に霊神碑と呼ばれる碑を建てて、講社講祖や先達の霊を御嶽山に祀る風習がある。・・一般に{何々霊神}{何々行者}というように謚号が刻まれる」「・・・その後各地の御嶽神社境内にも建てられるようになった。」と載っています。
ハイカラ?ものでは境内の石段の脇に、柳田国男など松岡3兄弟をはじめ有名人が当社に桜木500本を寄贈した明治30年日露戦争記念碑(英文)が解説板とともに置かれています。
他にも宝暦十二年(1762)道祖神や聖徳太子碑など民間信仰碑があちこちに埋もれています。
旧字体で面白かったのは大正十年養蠺神記念と刻まれた石祠です。蚕の旧字ですが、漢和辞典を調べると蠺の字は糸を妊む虫の意味であると載っています。この辺りも桑畑があったのでしょうか
より大きな地図で 85北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅳ を表示
旧字体で面白かったのは大正十年養蠺神記念と刻まれた石祠です。蚕の旧字ですが、漢和辞典を調べると蠺の字は糸を妊む虫の意味であると載っています。この辺りも桑畑があったのでしょうか
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