2010/11/05

90北総石仏 我孫子の石仏 新木Ⅱ

なんとブログを見直していたら、第81回を重複使用しています。ショック!
90-1葺不合神社の石仏
前回の旧長福寺から凡そ500m国道356号を西進します。右手に明神鳥居のある葺不合神社参道入り口があります。名前からして珍しい神社です。祭神は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)といわれ、神武天皇の父神です。母が鵜の羽で葺いた産屋を作り終えないうちに生まれた為に此の名がついたと記紀神話で述べられています。Wikiで見ておきましょう。同じ祭神を祀る宮崎県の鵜戸神宮は有名ですね。
それにしても珍しい神を祀っていますが、元は厳島神社の境内地です。「湖北村誌」に元暦三年(1186)創建と伝える竹内無社格厳島神社と表示され、参道奥の石段を上ったところにある明和年間建立の弁天堂が今の拝殿となっています。明治39年の神社合祀令より、明治41年字宮前から移ってきた経緯にあります。おおよその経緯が平成15年神社拝殿改修記念碑に述べられているので写真を載せておきましょう。

さて石造物ですが、国道沿いに立つ昭和8年鳥居の左右に雑然と置かれています。左は天明四年(1784)文字青面金剛尊、享保十五年(1730)六臂合掌青面金剛塔、後ろに寛保元年(1741)大乗妙典六十六部日本回国塔ですが左側面を見ると三界萬霊塔も兼ねています。明治43年合祀紀念碑には葺不合神社だけでなく白山神社・三峰神社も厳島神社境内に合祀したと述べています。
参道右手は藪に埋もれ気味ですが、文政二年(1819)文字庚申塔、宝暦四年(1754)文字青面金剛塔などが元文四年(1739)二童子付ショケラ持青面金剛塔などが並んでいます。
参道を進むとどんどん窪地に降りていきます。左に文化七年(1810)庚申供養で寄進された手水石が置かれています。先に進むと高台に続く石段左に前述写真の拝殿改修記念碑が置かれています。伊勢太太神楽奉納碑が左右に立てられている石段を上れば、境内正面が弁天堂の額を掛けた拝殿となっています。左に回り本殿に向かいます。途中に寛政六年(1794)二十六夜愛染明王供養塔がひっそりと建っています。
更に進むと三峰神社が祀られていますが、不思議なことに明治39年蠶影山神社碑(こかげさん)も建っています。他にも石棒のお供えがある紀念不明の白山宮石祠もあって沢山の神様がこちらに合祀されたようです。
さて本殿前に着きました。拝殿から続く石段(登拝禁止)の降り口に安永五年(1776)庚申供養石灯籠が置かれています。
笠部が降ろされています。元文三年(1738)の竿部にも「奉造立石灯炉為庚申供養塔也」と鮮やかに残っています。本殿は明治32年建立、大工・木挽・彫刻師の名を残しています。木挽名をあげていることから地元樹木を伐って用材としたと思わせると市史に書かれています。沼南地区を回ったときに杣職人組合の石碑を見かけた事があるので、此の地区は明治期でも山林業が成立していたのでしょう。そしてその彫刻の面白さは息をのむ豪華なものです。
本殿右壁面はヤマタノオロチ退治の場面でしょうか。
裏壁面は天の岩戸神話と思われます。
左壁面はさて何でしょうね。
顔のつくりが人形劇のように見えるのがご愛嬌でしょうか。

90-2太子堂の十九夜塔
葺不合神社の鳥居から400mほど西進すると浄土真宗真栄寺の表示があります。真栄寺に向かう道を左折すると墓地に隣接して整地された場所に昭和十年改築された太子堂があります。
お堂の中に美豆良姿で柄香炉持ち16歳太子孝養像と称される彩色木造が祀られています。太子堂入り口には天明二年(1782)六地蔵や宝永三年(1706)地蔵塔が並んでいます。
荒地のような境内に石仏は無く、南側石段を上がったところから元禄五年(1692)三界萬霊塔、安永九年(1780)新四国霊場碑、文化八年(1811)馬頭観音塔が脈絡も無く散在しています。
敷地北西の隅にブロックで囲われた場所に無縁墓碑が放置状態です。
その中に寛政十一年(1799)十九夜講中刻まれた如意輪塔と文化五年(1808)銘の文字塔で如意輪観世音供養塔左側面に十九夜と刻まれた十九夜塔が置かれています。
他に荒れた碑面の文化二年(1805)六十六部回国塔なども紛れ込んでいます。寂しい感じで太子堂をあとにします。太子堂を出たところ藪の下に後ろ向きの石祠があります。宝永五年(1708)の道祖神ですが以前は南側道路が主要通路だったのでしょうか。

90-3太子堂前(真栄寺南側旧墓地)の釈迦如来
大師堂と真栄寺墓地の間を通る道路がT字路に交わる南東側は荒れた笹や潅木の露地となっています。こちらに宝永五年(1708)の六地蔵が並んでいます。旧墓地なのですが斜面に素晴らしい阿弥陀様が六地蔵に守られるように祀られています。
宝永五年(1708)頭上に幡・光背に円光・禅定印を結ぶ丈1.5mはあろうかという立派な石仏です。
「奉造立釈迦牟尼佛妙典六十六部納経」と刻んであるところから日本廻國塔として建立されたものでしょう。
90-4五の神の寶篋印塔
我孫子の社寺史跡分布図(C)に五の神で表示はありますが、普通ではたどり着けない場所となっています。雑木林の中に寶篋印塔と何基かの石仏石祠が祀られているばかりで社も無ければ参道も踏み跡だけという具合です。だけど石仏や塔は此の地区でも相当早い時期の寛永・元禄期のものです。一体なんだったのでしょうか?
五ノ神は大師堂の北東約400mの雑木林の中にあります。民家の脇道を入るとトンネル状の参道です。左手に注連縄を張った奥に元禄十五年(1702)十九夜如意輪塔が埋もれています。
参道を更に進むと注連縄を張った場所とその周辺に石造物が祀られています。
寛永六年(1629)寶篋印塔は此の場所での存在そのものが不可思議です。元禄十四年(1701)来迎印阿弥陀如来立像の立派さに驚きます。
碑面から「奉讀誦十五夜念佛廿三夜待男女以菩提也」と十五夜念仏・廿三夜待の両講が建立を果たしたものと分かります。
手前にある寛文八年(1668)阿弥陀如来像は「十五夜念仏供養・・」と刻まれています。さすが十五夜塔の流行地でありますね。注連縄の奥は天明三年(1783)湯殿山主尊出羽三山碑と昭和15年月山参拝碑となっています。他にも元禄九年(1696)大六天宮・元禄十六年(1703)八幡宮・文化年間稲荷大明神石祠などがあってその古さから一種のワンダーランド状態と思えます。不思議!
今回はこれまでとしましょう。
90-5馬捨場石塔群(20101121追記)
葺不合神社へ参る東からの道は国道365号から北へ曲がります。そして更に西方向へ左折しますが、左折せずに70mほど直進すると砂地の畑沿いに馬頭観音塔が10基ほど並んでいます。(地番は新木1571先)
昔、この場所から100mほど東に馬捨場があったそうです。石仏は文化六年(1809)馬頭観音像塔~昭和30年馬頭観世音文字塔まで永きに亘っています。
土ぼこりが厚くつもってもけなげに供養をしているように見えます。犬猫ペットは全盛ですが、馬の供養に詣でる人は誰もいないのでしょうか?

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