大師堂から国道356号線を300mほど西進すると上新木青年館のある地蔵院です。開創不詳ですが前回の大師堂前にある宝永五年(1708)道祖神石祠に「導師芝原龍泉寺・・・当新木村地蔵院」とあるところから江戸前期に寺院が営まれていたようです。永く無住だったようですが明治30~35年にかけて千体地蔵の奉納が盛んに行われたと我孫子市史に出ています。松貫を縦二つ割の一木造りで衣に墨塗りで顔に肌色彩色、背に祈願奉納者名など追善供養の地蔵が主体です。
総数1227体を数える千体地蔵は昭和57年完成の地蔵堂に納められていてガラス越しに拝むことが出来ます。
墓碑まじりの石仏群はこの地蔵堂の裏、西側塀ぞいに並んでいます。手前に見えるのは元禄九年(1696)と結構古い丸彫延命地蔵です。手前には明治30年代の「八万四千體之内六万六千六百号」などと刻まれた延命地蔵や、自然石型碑面に「八万四千體・・」文言を持つ線彫地蔵を刻んだ供養塔などが置かれています。八万四千體もの石仏をどこに奉納したのか、しばし考え込んでしまいます。更に奥に進むと見慣れた十九夜塔や庚申塔がお出迎えです。
気になるものを記しておくと寛延四年(1751)十九夜如意輪塔、寛文十二年(1672)三猿庚申塔、アーモンドヘッドの元文四年(1739)六臂ショケラ持青面金剛塔、元禄八年(1695)文字青面金剛塔と続きます。そしてお待ちかねの延宝七年(1679)十六夜念仏塔です。
「奉供養十六夜念佛二世安楽所」同行四十名です。此のブログでは古く8-8六軒コミュニケーションセンターで大きな十六夜塔を記した以外はみておりません。このあと中峠法岩院で元禄三年(1690)の延命地蔵十六夜塔を拝める予定です。久々の珍しい石仏に出会えました。その並びでは2基続けてアーモンドヘッドの寛延四年(1751)と元文二年(1737)の六臂ショケラ持青面金剛塔が並んでいます。
元文四年(1739) |
寛延四年(1751) |
元文二年(1737) |
東側塀際も百度石・相馬霊場巡拝碑・明治期の三界萬霊塔や石祠などが雑然と並んでいて過ぎた時代の民俗行事の証人のように思えてきます。
91-2日秀(ひびり)観音寺の石仏
地蔵院から80m西進するとT字路信号角に観音寺があります。寛文二年(1662)の創立で開基は中世の日秀禅正友治と考えられています。交差点の国道沿いに覆い屋があってその中に子安地蔵が祀られています。
首をかしげて裾には二体の童が左右に取り付いています。手前に赤いちゃんちゃんこを着た石造物はお猿さんでしょうか?日秀は将門伝説の地とかでこの石地蔵も成田に背をむけているという謂れもあるようですが本当でしょうか?
境内には慶応二年に作り足した立派な向背のある観音堂があります。
向背虹梁に見事な彫刻がみられます。観音堂を囲むようにして塀沿いに石仏が並んでいます。まず、向背に向き合うように7基の石仏です。
右から明治32年天満宮・元禄九年(1696)十九夜念仏如意輪観音、宝暦九年(1759)文字青面金剛尊、元文元年(1736)青面金剛大菩薩の刻字像、享保十一年(1726)弐十三夜勢至菩薩塔、正徳五年(1715)青面金剛塔、安永八年(1779)二十六夜愛染明王文字塔となっています。
宝暦九年塔の三猿 |
元文元年青面金剛大菩薩塔 |
享保十一年勢至菩薩 |
観音堂脇にも7基余の石仏が並んでいます。
元禄十一年(1698)三猿塔や享和三年(1803)十九夜塔、文久二年(1862)弐十三夜塔にも文字庚申塔などなどです。他にも紀念不明の待道大権現など賑やかですね。
91-3湖北中峠の一里塚跡
観音寺から200m西進するとコンビニ・ミニストップがあります。この湖北支所バス停の傍に一里塚の跡碑が立っています。塚として残っているのは数少ないようです。
88-1布佐の一里塚で述べたのと同じく昭和9年に建てられました。
安政四年(1857)文字庚申塔や明和六年(1769)大乗妙典塔なども祀られていますが、いかにも国道際で窮屈そうですね。
より大きな地図で 91北総石仏 我孫子の石仏 新木Ⅲ日秀中峠 を表示
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