前回の観音寺から成田線を越えて南下し、県立湖北高等学校の南東位置に雑木林の中の将門神社があります。
92-1将門神社
我孫子市史に「日秀では天慶三年(940)に戦没した平将門の霊が遺臣たちと共に明神下から日秀まで手賀沼を騎馬で渡り沼のほとりの丘で朝日の昇るのを拝したと言い伝え、その伝説の地に一宇を建てて霊を祀り鎮守とした」のが将門神社のおこりと記しています。日秀の住人は桔梗を嫌う事(愛人桔梗前の裏切り)やキュウリの輪切りをしない事(将門の家紋)や将門調伏の祈願をした成田山にお参りしない禁忌習俗なども載せてあります。本当に!!!
さて、朱塗欅造・稲荷鳥居は紀念不明です。
稲荷鳥居とは一般的な明神鳥居の形式ですが柱頭に台輪が付いているものをさすそうです。確かに柱と島木の境に輪っかが付いています。鳥居の勉強はWikipediaをご覧ください。境内はがらんとしてそっけないくらいです。正面の石垣上のお社は昭和30年製です。境内の石造物は大半が明治以降のもので、明治5年の天照皇大神宮石祠・同手水石・明治27年大日如来石祠?・明治28年三峰神社石祠・明治28年月山主尊出羽三山碑などなど明治期からの村の行事に付き合った形見のようなものが置かれています。
将門神社とはいえ「どこが?」と突っ込みたくなりますが、鳥居の扁額に平親王将門大明神と載せてあるのでみておきましょう。尚、石造物一覧では元禄十五年(1702)水神石祠が一番古いものですが不明石祠になっていて読めないですね。
92-2中里の諏訪神社
県立湖北高等学校の脇を抜けて分かりにくい道の先に諏訪神社があります。
天正四年(1576)の創建で旧中里村の産土神として奉祀されてきました。明治41年に熊野神社(天正五年創建)外川神社(天保二年創建)水神社・稲荷神社・山王神社・弁天神社の諸社が合祀されました。
これらの事情は解説板・中里諏訪神社の由来に詳しいので大型サイズの写真を載せておきましょう。
石造物リストもも網羅されています。これだけ詳しく載せている解説も出色ものです。
確かに整然と祀られているのですが、ちょっと窮屈そうなのと解説板に盛大な行事が知るされている間のギャップを感じてしまいます。
92-3手賀沼殉難教育者之碑
戦前の昭和19年湖北から対岸手賀に渡った千浜校長以下19名の女性教員が遭難した事件の慰霊碑です。
これはあらゆる郷土史資料に出てくる割に所在がイマイチ分かりにくいところにあります。実見される方は年に何人おられるかどうかでしょう。合掌
今回は意外と暗い印象の社巡りでしたが次回は明るくパッとやりましょう。
より大きな地図で 92北総石仏 我孫子の石仏 日秀(ひびり)・中里 を表示
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