葺不合神社などがあった新木地区の北に古戸地区があります。宅地開発された団地もありますが本来は利根川に向かって畑地の広がる農村です。稲荷神社と天満宮と共同墓地を見てみます。
93-1稲荷神社の鏝絵壁
天正七年(1579)七月七日に古戸村産土として創建。もと流作12の別地にあったが文化年間に阿曽新兵衛さんの屋敷地内に遷座とあります。天保の頃は社殿五間四方を残して村の畑とすることが認められたと記録にあり、結構村人の暮らしに密着貢献したことが分かります。(我孫子市史 民俗文化財編)
慶応三年(1867)の石鳥居は台輪がないので稲荷鳥居ではありませんね。参道の左に真新しい石祠があります。
平成21年3月遷座の牛頭天王再建碑です。謂れなど映りの悪い解説板でお読みください。
Wikipediaでも牛頭天王が載せてありますね。参道左は明治30年導了大権現碑(これは雨乞いで有名な大山阿夫利神社に関係する導了尊につながると思いますが委細不明?)とか右手参道にも明治期の伊勢太太講碑が並びます。社殿右手に昭和11年「意富比(おおひ)大神宮」碑が立っています。これは村人が筆者のホームタウンにある船橋大神宮に参拝した記念碑だそうです。意富比神社はWikipediaでお読みください。
さて、鏝絵は社殿正面左右の小壁に描かれています。
左右とも龍の図柄となっていますがなかなかの作品です。
実は囲まれて見えませんが外陣奥の左右の壁にも狐図の鏝絵が描かれています。色土をもちいた力作だそうですが拝見したいものですねえ。
93-2稲荷前の待道様
神社を出た左の塚状になったところに大銀杏がたっています。
その下に安政七年(1860)の常夜灯と天保十五年(1844)待道大権現石祠が祀られています。その側に文化五年(1808)道祖神もあります。大銀杏はきっと利根川からも良く見えた目印だったのでしょう。
93-3古戸天満宮の庚申塔
こちらも集落の中のどん詰まりにあって村人にしかわからない見つけにくいお宮です。竹林に囲まれてしまいましたが昔は利根川をバックにした見晴らしの良いお宮だったのでしょう。
元の社は延享三年(1746)の棟札をもち弘化四年(1847)に再建されたお堂だったのですが、今は近代的なお宮に衣替えしています。参道に赤い幟で天満宮と書かれています。ちょっとウザイのは右方の庚申塔を隠してしまうのが残念です。
左から正徳五年(1715)笠付六臂合掌青面金剛塔、天明八年(1788)文字青面金剛塔、天保五年(1834)文字庚申塔と続きます。明示23年手水石と明治33年伊勢講碑が続きます。
参道右手は猿田彦大神碑が4基です。写真左から文化十二年(1815)文政十一年(1828)嘉永元年(1848)文化三年(1806)となっています。近隣より集めたと思われますが、日蓮系といわれる猿田彦塔が集められているのも興味深いですね。
資料によればこちらの御本体木像は、衣冠束帯姿で杓を左掌に立て右手袖で上から押さえている極めて珍しい持ち方をしているとか。見たいものですね。
93-4古戸共同墓地の十九夜地蔵菩薩
稲荷神社を200m西進したところに共同墓地があります。地図上は細長い通路の両脇が墓地となっています。正面入り口は東から来る道路が正解でしょう。「十九夜念仏」と刻まれた元禄六年(1693)十九夜地蔵菩薩像は東の入り口に並んでいます。
東壁際の隅に厚い涎掛けに覆われていて探し出すのに苦労します。十九夜月待講の初期の頃は地蔵信仰から発展したのかもしれませんが、地蔵像塔が時折このように存在しています。
こちらでは文化十三年(1816)十九夜如意輪観音塔も隠れるように佇んでおられます。手前におられるのは「二世安楽」文言を刻んだ元禄十五年聖観音像塔です。
他にも大正七年善光寺如来碑・明治31年の筆子塔もあるようすね。
93-5観音堂の寶篋印塔
古戸集落の台地の南端の階段脇に観音堂(墓地)があります。入り口すぐに寛文八年(1668)法岩禅院の住職がたてた相輪部に「仏」笠部に「法」塔身に「僧」と刻まれた寶篋印塔があります。
日下部朝一郎氏の石仏入門で「全体的に細長く、返花はあるが拙劣簡略化し、隅飾り突起は外部に反り、伏鉢・請花も彫刻過剰で見当がつかない。ドーナツを並べたような九輪が申し訳程度にあり、上部は宝珠の変形したもの」と江戸時代関東一円のどこの墓地にもある代表例が当てはまる好例でしょうか。
こちらは他に寛文十三年(1673)十九夜如意輪塔や文化三年(1806)宝馬を冠した馬頭観音像塔などがおられます。少し眺めていたら墓塔ですが返手の如意輪観音塔を見つけました。
これはどこか志村けんの「アイイッーン」に似てませんかねぇ。失礼しました。
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