2010/12/16

94E 上州邑楽郡板倉(おうらぐんいたくら)の石仏

平成8年3月毎日新聞旅行社が主催した群馬県板倉の石仏バスツアーの参加記録を、庚申懇話会石川博司氏が残されているのをネットで見つけました。北総石仏でマンネリ化した気分を解きほぐそうと思い起って、折りたたみ自転車を持ってチャレンジしてみました。旧字の寺社名だけが頼りですし貸切バスの行程にはかなわず半分位しか回れませんでした。庚申塔見学記録とはいえ利根川流域に共通の十九夜信仰の盛行を実感できた1日でした。空っ風も実感できましたが。
東武日光線板倉東洋大学前駅は北千住から約50分の所にあります。駅東口のわたらせ自然館前にレンタサイクルセンター(1日600円) があるので利用すれば便利です。
94E-1海老瀬・松安寺の石仏
板倉東洋大学前駅東口から北方約1kmに松安寺があります。
門前左に享保十六年(1731)ショケラ持二童子付青面金剛塔がお迎えです。右側には嘉永四年(1851)頭部に浮彫り如意輪像付きの十九夜角柱塔が建っています。
又、庚申塔の左壁際に馬頭観世音の集まりでしょうか6基の石仏です。左端から丸彫石仏ですが紀年不明、明治28年文字馬頭観世音、寛政二年(1790)馬頭観音像、不明塔、(享保?)四己亥年丸彫石仏、紀年不明二頭馬印付文字馬頭観世音塔となっています。

山門を入ると左は延享二年(1745)文字庚申塔、紀年不明文字青面金剛王塔、宝暦二年(1752)十九夜塔などが整列しています。参道正面は如意輪観音堂です。堂前左は宝永四年(1707)不動明王塔です。その後はに寛保三年(1743)六十六部供養塔が隠れています。堂前右は紀年不明の丸彫り宝珠綽持地蔵菩薩が折られます。
堂前を右に進めば松安寺本堂です。参道右に新しい十六羅漢像が並んでいます。向かって左には平成8年に出来た仏足石も置かれています。ちょっと説明を並べすぎましたが、写真でみるとなんて事のない普通のお寺です。
道路を挟んでお向かいが長良神社です。この地区内に長良神社がおおいのですが由来などは「神社探訪・狛犬見聞録・注連縄の豆知識」というHPをご覧になるといいでしょう。上野の住人赤井良遠なるものが春日大社に祀られた藤原長良公を郡内に勧請したことに始まる由。石仏はありませんが伊勢講碑が何基かならんでいます。
94E-2北海老瀬・正明院&賀茂神社
 松安寺の北方500mに地図上で賀茂神社の表示があります。その東隣が 正明院です。村でよく見かける無住となった平屋建集会場のような造りです。
門柱左に貞享元年(1684)来迎阿弥陀像と享保三年(1718)地蔵菩薩日本廻國塔が並んでいます。
門柱右は元文二年(1737)二童子付ショケラ持ち青面金剛塔、宝永五年(1708)光明真言塔の2基が並んでいます。
隣接する賀茂神社のカーブミラーそばに角柱型萬延元年(1860)文字庚申塔が見えています。この神社の祭礼当番引継ぎ式は町指定重要無形文化財であると解説板に書かれています。
94E-3東源寺墓地(共盛コミュニティセンター隣)
来た道を駅方向に戻ります。わたらせ自然館前を過ぎていくと左手路傍に萬延元年(1860)文字庚申塔、紀年不明延命地蔵、剥離の激しい天和三年(1683)十九夜塔を見受けました。
まさに石仏が地に還っていく感じです。 更に進みガソリンスタンドの先を左にそれて共盛コミュニティセンターを目指します。隣が東源寺墓地となっています。低いブロック塀越しに立派な笠付十九夜塔が目に付きます。
萬延元年(1860)の庚申年に99人の女人講中で創立した十九夜塔です。
少し離れて正徳三年(1713)六臂合掌青面金剛塔も祀られています。
94E-4一峯神社と峯住民センター
東源寺墓地の南方200mのところ権現沼の奥、鬱蒼とした高台に一峯神社があります。由緒によると天平宝宇八年(764)日光開山の勝道上人が二荒権現をこの地に勧請し峯の権現と称したことに始まるそうです。その後一峯神社と改称し明治の合祀令で日枝神社等を合祀しています。こちらは板倉町指定天然記念物の一峯神社社叢が貴重です。
それと町指定文化財「一峯神社貝塚」も興味深いですが解説板だけにしておきましょう。
さて、肝心の石仏ですが一峯神社の参道下にある峯住民センターの敷地駐車場に10基程一列で並べられています。
左端は隅飾突起が反り返った典型的な江戸時代の寶篋印塔です。右隣は文久元年(1861)十九夜塔です。続いて紀年不明の?石仏に十九夜塔・聖観音風の不明石仏3体がならびます。小さな青面金剛塔は元禄塔と石川博司氏資料に記載がありますが筆者には読めません。中央の六臂合掌青面金剛塔は享保元年(1716)造立です。墓碑らしきものが続いたあとは右端は元禄十四年(1701)六臂合掌青面金剛塔となっています。顔ぶれで特に変わったところの無い見慣れた石仏様でした。
94E-5大高嶋丸谷・長良神社の勝軍地蔵
駅の西側へ抜けて板倉ゴルフ場を目指します。ゴルフ場の東端の橋を渡った堤防下に丸谷住民センターと長良神社があります。

道路際に雨除けをつけた元禄十二年(1699)勝軍地蔵がおられます。
傍らの解説板に「石仏研究者間で著名な・・」と表現されています。この勝軍地蔵は石仏事典第二版40頁に田代房春氏撮影で載っていて著名なんですね。今でも綺麗・・・ですね。
並んでいるのは左から2番目が元文五年(1740)庚申供養塔、隣が天保拾年(1839)文字庚申塔となっています。
94E-6丸谷の共同墓地
勝軍地蔵の南西道路沿いにブロック塀に囲まれた共同墓地があります。墓地内の雨除けが目に付きます。寄ってみると5基の十九夜塔が並んでいます。
左から昭和6年・宝暦四年(1754)・寛政九年(1797)・嘉永五年(1852)・文化十四年(1817)となっていて18世紀~20世紀に連綿と続く十九夜(念仏)信仰の根強さを実感した次第です。墓地内は享保?の不動明王や一石六地蔵なども祀られていました。
94E-7大高嶋大久保の清浄院前
長良神社の西方1kmに高島天満宮があります。その天満宮の南西1km に清浄院があります。

「利根川中流十三佛霊場阿閦如来」「新四国霊場第八十八番霊場写」の石柱が立つ山門から、道路を隔てた南側に無縁仏の隣に六地蔵とそれを囲むように6基の庚申塔が祀られています。
写真塀際左から正徳六年(1716)二童子付合掌青面金剛像、元禄十二年?(1699)合掌青面金剛像、年不明破損青面金剛像が並びます。六地蔵背後に享保十二年(1727)笠付バン庚申供養塔、自然石型「富士?神」碑、嘉永三年(1850)文字庚申塔2基が並んでいます。像容がかなり荒れていて残念ですね。この寺には新しい七福神の石像などもあって明るく気持ちのよいお寺ですね。
94E-8大高嶋・飯野の地蔵院前
県道369号飯野の交差点近くに地蔵院前バス停があります。広い参道のような道がまっすぐに地蔵院に伸びています。その西側に12基ばかりの石仏が並んでいます。
あっけらかんとした空間にこれだけ種々の石造物を並べてしまったところに、何か県民性を感じるのは筆者の偏見だろうなあ と思いながら眺めてしまいました。
左から文化年間の文字馬頭観世音塔、不明石塔、宝暦十二年(1762)十九夜念仏塔、不明石像、年不明文字馬頭観世音塔?、新四国七十二番石塔、湯殿山主尊出羽三山供養塔、?拾萬巻供養塔、五輪塔、年不明十九夜塔、元文五年(1740)二童子付六臂合掌青面金剛像、丸彫延命地蔵となっています。石川テキストでは「明和五年と文化十一年の十九夜塔」の記載がありましたが読みきれません。
石川テキストに指摘あるとおり面白いのは元文五年青面金剛像で、輪状後光と台石の御幣持ち二猿でしょう。
日光型にみられる二猿をこんなところでお目にかかれるとは、驚きですね。
94E-9板倉の実相寺
板倉の旧市街で国道354号線板倉交差点の南東にある実相寺は、テキストにないついでの(失礼!)一寺です。
参道に14基の石仏が並びます。右から2番目は寛政十二年(1800)文字庚申塔ですが、台石の三猿が烏帽子猿で踊っているようなスタイルを見つけ、ヤッタ!!
ほかに年不明の荒れた三猿付青面金剛像塔が2基あります。寛政四年(1751)と嘉永元年(1848)十九夜塔では並べると違いがはっきりしますね。
嘉永元年如意輪観音浮彫十九夜念仏供養塔
寛政四年如意輪観音十九夜念仏塔
 他には宝暦十二年(1762)文字聖観世音菩薩供養塔、文政九年(1826)光明真言供養塔、文化九年(1812)大乗妙典六十六部供養塔などなど。
境内に 十五体?の羅漢像が置かれています。雰囲気のいい羅漢さんを見てほのぼのしたものを感じました。
94E-10雷電神社
 当社は関東一円の雷電神社の総本宮とか、社殿は天保六年(1835)造営、左甚五郎10代目名人彫物師・石原常八の彫刻が施され群馬県指定重要文化財となっています。由緒は下の写真でご覧ください。
社殿の壁画彫刻は彩色の施された立派なものですが図柄の説明が欲しいですね。北総では二十四孝の孝行譚の図柄が多のですがこちらは違うようですね。写真で華麗ないくつかをあげておきましょう。自分なりに物語を想像するのも楽しいものです。
 神社由来や行事など詳しくは「雷電神社」HPをご覧になるといいでしょう。これにて板倉見仏記はお終いにします。本文中で紀年銘など読み違いや誤記述があるかも知れませんがご容赦。

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