2011/12/08

126 北総石仏 柏の石仏 根戸・布施

布施地区は国道6号線の北にある利根川沿いの農村です。柏市になる前の旧富勢(とみせ)村は明治22年市町村令で、布施・根戸・宿連寺・久寺家・根戸新田・呼塚新田・松ヶ崎新田・柏堀之内新田の八か村が合併して出来たものです。富勢郵便局・小学校があるのがやっと頷けました。実は新村名を決める際に、最大の大村である布施と旧天領地で旧連合戸長役場時の親村である根戸が激しく対立したと「続柏のむかし」にかかれています。その大村の名残は石造物の多さに見ることができるようです。
126-1 根戸の駐車場内馬頭観音塔
国道6号線の台田交差点から県道7号を300m北進すると信号のある交差点です。その交差点の西側に小さな駐車場があります。駐車場の中程の木下に赤い鳥居が見えます。その隣に2基の馬頭観世音塔が祀られています。ちょっとお邪魔して拝観していきましょう。
左が寛政元年(1789)で右が文化十四年(1817)の馬頭観世音塔
2基とも宝馬を頂いています
126-2 富勢郵便局前の庚申塔
先ほどの信号から500m北上すると左手に富勢郵便局があります。押しボタンの横断歩道があって道路を隔てて向かい側に、むき出しで7基の庚申塔が立てられています。
 左から文化五年の文字青面金剛塔、文化十年六臂青面金剛像塔、文化六年・八年・?年不明・文化二年・天保十一年各青面金剛文字塔の計7基の庚申塔です。
歩道との境でうっかりすると見過ごしてしまいます
何か石の杭のように思われてしまうのが寂しいですね。みんな二百年近い歳月を耐え抜いた石仏なんですが。
126-3布施弁天入口の常夜灯
更に500m進み県道7号線の布施入口交差点を北東方向へ曲がると、すぐに変則三叉路となります。その三叉路の分岐に、布施弁天・東海寺の立看板と脇に大きな常夜灯が建っています。

常夜灯と立看板の間に道標が見えます
竿には文化七年(1810)布施辨財天と彫られています。側面に「筑波街道 是より十一り」「辨財天 是より十町余」と表示されています。元はこの先の大師堂にあったものを移設したものですが、この立派さをみると往時の布施弁天の賑わいが偲ばれます。
脇にある小さな道標は貞享(1687)「是より布せ??」と表示のある古いものです。
126-4 荒屋敷・南龍寺の石仏
先ほどの分岐から村道を約1km北進すると浄土宗南龍寺です。元和元年(1615)の開山で檀林東漸寺の末寺であったようです。

山門を入った左手に大きな4基の石碑が立っています。中でも玉垣上の自然石型石碑は釈迦三尊が線彫りされた珍しいものです。明治32年建立です。碑面下に「印土伽耶聖跡模」と標し150名以上の寄付によっています。村の団結の証でしょうか?
右の2基は昭和3年正観世音塔・善光寺参記念碑となっています。
更に 進むと墓地との際に、5基の石塔があります。
左から昭和?年・明治40年宝冠付文字馬頭観音、文政八年(1825)表面剥離不明塔、大きな文政二年(1819)徳本名号塔、天保十二年(1841)普門品供養塔となっています。
特異な書体の徳本念仏塔で下部花押に注目
 徳本名号塔は日本石仏事典第二版で「徳本念仏塔」の項目で記載されています。『・・宝暦八年(1758)紀州日高で生まれ寛政年間に6ヵ年大和山中で修行し修験的な能力を感得したといわれ「徳本行者」とも・・後、諸国順錫し念仏講を組成・・文政元年(1818)示淑し・・・自著の下に丸に十字の特異な花押・・鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影・・・自筆色紙が墓所一行院にある』。徳本塔は白井市や旧沼南町に多かったので久しぶりの引用です。
126-5 布施の香取神社
県道47号守谷流山線を挟んで南龍寺と対称の西側に香取神社があります。布施会館(公民館)が目印です。道路に面した木立に石仏が散見されます。
左の建物が布施会館で、神社は木立の裏側にあたります
 上の写真左に庚申塔4基が祀られているのが分かります。左から文政三年(1820)文字青面金剛塔、寛政十一年(1799)六臂ショケラ持青面金剛塔、文政八年(1825)・天保三年(1832)文字青面金剛塔の4基で道路に向かって並んでいます。
右奥に神社本宮の覆い屋が見えています
 最初の木立の写真の右側に見えるのも小さな陰も庚申塔です。下の写真のように3基あって、左から宝暦九年(1759)・享保六年(1721)六臂合掌青面金剛塔・享保元年(1716)ショケラ持青面金剛塔となっています。
逆光補正をしているのでちょっと不自然かもしれません

これらの石仏は、資料では布施字天王山山頂(旧八坂神社跡)の所在となっています。移転されてこちらに落ち着いたようですね。他にも文政十一年(1828)大六天石祠、嘉永五年(1852)諏訪大明神、足尾山・白山大権現石祠などなど。参拝碑の伊勢講・大山阿夫利神社・三峰なども散見されます。いまや村の石造物の姥捨て山状態ですが、これでもよく守られているほうで貴重ではあるのですが。
ところで香取神社の写真を載せておきます。
天保十一年の鳥居、拝殿・本宮の裏が最初の木立写真のところです
神社の側面にすばらしい彫り物です。東都彫師 石川三之助信光と読めます。江戸彫物の典型ともいえるでしょうか。石川家は代々宮彫りで幕府官工(徳川家霊廟修理)であったとか。
黄石公と張良 額面右に彫師銘が読めます
黄石公と張良」の逸話は張良が辛抱強く黄石公に試されたお話です。Wikipediaをご覧ください。

猪早太 鵺(ぬえ)退治の図











司馬温公 甕割り図
2番目の写真は、二条天皇の病を治すべく源頼政が家来・猪早太を連れて鵺(ぬえ)退治をした話です。源頼政が射落とした鵺を猪早太がとどめをさそうとしています。鵺というのはこんな顔?
3番目は 司馬温公の神童伝説です。七歳の時、甕に落ちた友人を石で割って助けたお話です。
以上、「江戸彫り」HPを参考にさせていただきました。
126-6 善照寺の石仏
本堂脇の椎の木の先に六地蔵があります

香取神社の西にあるのが乾元元年(1302)開創の時宗・善照寺です。踊り念仏宗とも遊行宗ともいわれ盛んに活動したようす。一遍上人の像が置かれているのも珍しいですね。
説明を追加
善光寺式阿弥陀三尊銅像を有するなど、歴史由緒はみんなの富勢百科HPをご覧ください。
歴史ある割には石造物は少なく、貞享二年(1685)六地蔵、大正7年子育地蔵が目につくくらいです。本堂左に覆い屋のついた「宗門守護神熊野証誠殿」の社があります。その近傍にひっそりと3基の十九夜塔が祀られています。
左3基が十九夜塔で4基目は墓碑
 左から安永五年(1776)十九夜如意輪塔、延享二年(1745)十九夜延命地蔵、宝暦十二年(1762)十九夜如意輪塔となっています。
十九夜の地蔵塔は多くありません
 126-7 八坂神社と妙見菩薩
 善照寺の北100mに八坂神社があります。由来や祭神は「みんなの富勢百科」をご参照ください。
手前が妙見社で左奥白い建物が八坂神社です
古谷の妙見社は元文二年(1737)の古文書にも見え東海寺の管理です。元は移建された八坂神社後方にあったとガイドの記載です。写真のように綺麗に移建整地されてようです。
妙見社右の石像は享保十年(1725)勢至菩薩二十三夜塔で左が嘉永七年(1854)二十三夜文字塔です。
碑面が荒れて資料無しでは判別不能
八坂神社の裏に無縫塔(卵塔)などが祀られている一画があります。整地された折に移されたのでしょうか、石塔が置かれています。
手前左端の石祠は宝暦五年(1755)天神社
 上の写真正面に左右2基ずつに分かれて見えるのは、いずれも庚申塔です。左から宝永六年(1709)三猿庚申塔、寛政六年(1794)・天明元年(1781)文字青面金剛塔、元禄十一年(1698)三猿庚申塔となっています。
木立に隠れて見えませんが、別に3基の石塔が直交して並んでいます。
元禄十六年(1703)如意輪観音、元禄四年(1691)「石佛一躰六斎日供養」塔、元禄二年(1689)六臂合掌青面金剛塔となっています。真ん中の石塔はガイドでは庚申塔No.106に分類されていますが、三猿も付かず六斎日供養の文言もあるところから斎念仏供養塔でしょう。
布施の前半はこれまでにしましょう。
より大きな地図で 126 北総石仏 柏の石仏 根戸・布施 を表示

0 件のコメント: