2011/02/21

100 我孫子の石仏 都部・湖北台

100回記念ですが特に変わりなく相変わらずの我孫子まわりを続けます。千葉県の利根川沿いにJR成田線がはしっています。湖北駅の西方に都部(いちぶ)という珍しい地名のところがあります。後述しますが、近くの正泉寺には「血盆経一部が手賀沼に出現した」との縁起がありそこからから都部(いちぶ)という地名に由来したといわれているそうですが???

100-1都部の八坂神社
都部集会所の傍にあります。古老伝説で応永三年(1396)創設と神社明細帳に記載あるそうですが果してどうでしょう。
木造両部鳥居をくぐった参道右手に石造物が整列しています。庚申塔が多いのですがいずれも碑面剥離が進み荒れていて残念です。写真左から享和元年(1801)文字青面金剛尊・文政元年(1818)と文政七年(1824)の像剥落青面金剛塔・1基おいて中央が紀年不明の「大聖菩薩」と書かれた青面金剛像塔です。その右に明和五年(1768)文字青面金剛塔で仲冬如意日(=霜月吉日)と刻まれています。右隣は文政三年(1820)の文字二十三夜塔です。次は寛政九年(1797)銘で勢至菩薩が剥落した二十三夜塔といわれています。写真右端は天保六年(1835)待道大権現石祠の玉垣です。手前の御手洗も安政六年(1859)ですね。他に明和二年(1765)弁財天石祠・弘化四年(1847)山神宮やら三峯山・一言主大神・富士浅間大神・尾鑿山など合祀された神々の寄り合い所帯となっています。
簡素な拝殿です。写真に見える明治12年狛犬が平板な顔のつくりでこちら向きに少々変わった像容が可愛いですね。

100-2 正泉寺
JR成田線の線路を挟んで八坂神社の南側対照な位置に正泉寺があります。我孫子市史によると弘長三年(1260)鎌倉執権北条時頼の息女法性尼(桐姫)留庵の草創伝説に始まり時頼を開基とします。以来、開山41世以上を数えるそうですが、明和初年(1764)の火災で以降伽藍の再建に努めてきました。
北側参道入口に明治13年の地蔵坐像を冠した石塔が目に付きます。「地蔵利生日本最初龍宮出現血盆経道場」と記されています。「利生(りしょう)」は仏語で利益衆生の意味で「仏菩薩が衆生を救うこと、またその恵み」を現します。龍宮出現とは先述した手賀沼から発見されたことを意味するのでしょう。詳しくは教育委員会の解説板をご覧ください。
参道両側にポツリポツリと石造物が置かれています。昭和8年の地蔵塔は満州上海熱河事変戦没者供養塔です。顕彰碑や灯篭で面白みは無いですね。北参道の入口脇に稲荷大明神の木祠があります。その傍らに見過ごしそうな小さな石仏が3基並んでいます。
馬口印を結んだ安永二年(1773)馬頭観音坐像・文政十一年(1828)文字馬頭観世音塔・安永四年(1775)南無阿弥陀仏名号塔です。名号塔側面に「如是畜生發菩提心」と刻まれ家畜への弔いの心情が伝わってきます。
参道を進むと安永三年(1774)「不許葷酒入山門」の結界石と、反対側には 昭和4年「 日本最初血盆経道場」の山号塔がおかれています。側面にぎっしりと東京神田・日暮里・日光などの地名とともに寄進者名が刻まれ、当時の信仰者の広がりを偲ばせています。
更に進むと種子ウーン?塔(馬頭観音)や観音霊場百番・三山塔が建っています。
境内から鐘楼門・手前は地蔵銅像
その先で天保十三年(1842)頃の建立の入母屋造り・瓦葺の鐘楼門を通り抜けます。潜り抜けた鐘楼門の西側納戸内に伝快川和尚碑といわれる火炎向背坐像浮き彫り自然石が置かれています。
大日と読めそうですが、像容は不動明王と思われます。隣にも薬師如来といわれる像容不明の自然石が祀られています。楼門の東側は上の写真に見える切妻造唐破風屋根の大師堂があります。台石に弘化二年(1845)銘の大師像が祀られています。写真に見えるのは大阪在住の大谷善兵衛が昭和14年建立したもの。地蔵にまとわりつく幼児の兵児帯が目に付きます。

100-3都部新田の水神社
正泉寺の西側道路を南下し東京流通靴卸センター脇の旧道を約1km下って行けば、県道を横切って都部新田青年館の脇にある水神社(地図は天照皇大神宮)に辿り着きます。このあたりは元は手賀沼の入り江で、谷津田の開墾で出来た集落の土地ですね。安永六年(1777)の検地帳に水神社地の表示があると市史に述べています。
平成20年10月に新築されてピカピカのお社です。同月に伊勢神宮参拝記念碑も建てていてなんと豊かな土地柄だろうと感心したのですが、あるいは何か資産処分があったからなのかなと思うのは下司の勘繰りでしょうか?右奥に石造物が整然と並べられているのが分かりますし、社殿後からも石祠がはみ出ているのが分かります。鳥居の傍にある2個の丸石は力石です。シンプル且つ明るくコンパクトで気持ちよいお社です。
境内東側に12基の石仏が並んでいます。手前の寛政七年(1795)大自在天石祠から始まっています。うち庚申塔は6基で元禄十五年(1702)文字青面金剛三猿塔が最も古く、宝暦二年(1752)・安永四年(1775)がショケラ持ちと合掌型の青面金剛像塔となっています。
元禄十五年三猿庚申塔
あとは寛政九年(1797)文字青面金剛塔・文政九年(1896)と嘉永七年(1854)が文字庚申塔です。天保三年(1832)文字二十三夜塔は写真右から4番目となっています。昭和3年銘で「御大典記念華表木造赤味一基」の石碑が目に付きます。華表(かひょう)は中国の標柱が転じて日本では鳥居を意味しますが、詳しいところはWikipediaをご覧ください。
蛇足ですが、帝王堯・舜の時代、メイン道路に王への諫言を書かせた「誹謗木」は「華表木」とも呼ばれたそうです。独裁の漢時代にも飾り物として石柱「華表」が残されこれが日本にも伝わったのでしょうか。
もう一つ蛇足ですが華表の上の蹲獣は犼(こう)と呼ばれる獅子の子です。天安門には2基の華表があって一基は別名「望君出」=皇帝に宮廷内で楽をせず外の苦労を知りなさいとほえたそうです。もう1基は別名「望君帰」=皇帝に外で威張らず、早く帰って仕事をしなさいと吼えたそうです。皇帝といえどもも、おちおち楽しておられなかったようですね。
 
社殿裏も5基の石造物で現代の尾鑿山・出羽三山・富士登山記念碑などですが、土地柄を表す石碑もありました。明治33年 鰻魚及一切水族霊(供養)と記された供養碑です。まさに手賀沼縁の生業の歴史を現しているようです。

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