124-1.松ヶ崎・香取神社の「房総の百選石仏」弁財天
国道16号線の柏警察入口交差点を曲がり250mほど北上します。西側の 畑地と民家の間の細い道路の先に石柱と石段が見えます。3年前の訪問時と比べ、石段右の法地が造成されてずいぶんすっきりしています。
石段を登れば見晴らしのよい香取神社境内です。天文六年(1537)創建されたと伝えられ、鍵字の参道を抜ければ昭和60年に本殿修復記念事業で手入れされた境内が気持ちよく迎えてくれます。
さて、石仏ですが石鳥居をくぐればすぐの左に、二手青面金剛塔の研究で有名な遊行僧のような合掌型青面金剛像塔がおわします。
宝暦三年(1706)造立で横田甲一氏論文で「・・遊行僧のような・・頭巾状の・・山袴又はスカート状の・・帯はゴムホース状・・」の記述どおりの石仏です。当地は日本の石仏16号の年表には未収載ですが、百選石仏と一緒に見ることが出来るので一見の価値ありですね。
さて《百選石仏》ですが、房総石造文化財研究会が平成11年に出版した「房総の石仏百選」に掲載された石仏を筆者が勝手に略称したものです。当地には本殿右の植え込みに2体の弁財天が祀られています。
さて、下の写真どちらが百選石仏でしょうか?
元禄十六年(1703)種子ウの巳待供養塔 |
延宝五年(1677)「奉造立弁財天」で個人造立の供養塔? |
延宝五年塔は県下最古の弁財天といわれて、これが百選石仏なんですね。だけど元禄塔も蛇冠で鳥居を向背に持ち造形的に安定感があって、僕はこちらのほうが好き。いろいろなご利益を期待されて信仰される弁財天の知識は、Wikipediaでおさらいしておきましょう。
尚、元禄塔の「巳待供養」は日本石仏事典第二版に「・・仏説最勝護国経・・福徳円満経などの偽経で説かれ・・毎月巳と亥の日に供養・・」と216頁に説かれています。
そしてこの弁財天の隣に4基の石祠があります。右側2基は文化八年・明治42年山神宮ですね。後の2基ですが享保元年と読めるのはどうやら熊野神社石祠のようで残りは不明です。
境内に合祀されている八幡社と天神社の堂の並び、北側の民家との境に石塔が並んでいます。
左から嘉永四年・文政三年疱瘡神、寛政の二十六夜石祠 |
嘉永四年(1851)・文政三年(1820)疱瘡神石祠と、種子ウーンを刻んだ寛政十三年(1801)二十六夜待供養石祠が目に付きます。疱瘡には特効薬はなくて神仏に祈るしかなかった時代の村人の祈りが伝わってきます。そしてこの石祠のならびに百庚申塔が続いていました。
塀際で目に付きにくく又、荒れてもいたのですが46基ほどが確認できました。柏市史で天保十二年(1841)と確認しました。広くない境内ですが結構バラエティに富んだ石仏スポットでした。
124-2.覚王寺の石仏
真言宗豊山派のお寺です。過去帳によると開創は延宝四年(1676)ですが、墓地に伝来の板碑は永享または長享年間(1400年代)と推定されるとか。安置する金剛界大日如来も12世紀後半の可能性が高い千葉県有形文化財に指定されていて、謂れのありそうなお寺です。
が、残念ながら石仏は収穫がないですねえ。
本堂手前を左の墓地へ向かうところに、正徳五年(1715)延命地蔵がおられます。
又、その並びに六地蔵が3グループかたまっておられます。前列は明和元年(1764)六地蔵・後列左は手拭被りの丸彫り六地蔵グループで享和六年(1721)造立、そして後列右の六地蔵は紀年不明となっています。
あとは水汲み場のそばに、享保十五年(1730)種子ウン青面金剛塔と昭和48年百観音巡拝塔があるくらいです。
塀際で目に付きにくく又、荒れてもいたのですが46基ほどが確認できました。柏市史で天保十二年(1841)と確認しました。広くない境内ですが結構バラエティに富んだ石仏スポットでした。
124-2.覚王寺の石仏
真言宗豊山派のお寺です。過去帳によると開創は延宝四年(1676)ですが、墓地に伝来の板碑は永享または長享年間(1400年代)と推定されるとか。安置する金剛界大日如来も12世紀後半の可能性が高い千葉県有形文化財に指定されていて、謂れのありそうなお寺です。
が、残念ながら石仏は収穫がないですねえ。
本堂手前を左の墓地へ向かうところに、正徳五年(1715)延命地蔵がおられます。
前列の隙間から、頬かむりの六地蔵が見ええています |
又、その並びに六地蔵が3グループかたまっておられます。前列は明和元年(1764)六地蔵・後列左は手拭被りの丸彫り六地蔵グループで享和六年(1721)造立、そして後列右の六地蔵は紀年不明となっています。
あとは水汲み場のそばに、享保十五年(1730)種子ウン青面金剛塔と昭和48年百観音巡拝塔があるくらいです。
享保十五年塔の三猿で左の振り向き猿がひょうきんです |
124-3.覚王寺参道入口の石仏群
覚王寺正門から西に真っ直ぐ200mほど進むと変則T字路に出会います。この角に石仏とお堂が祀られている一画があります。
以前、この直線道路は狭い参道となっていたようです。覚王寺の住職らが尽力して拡幅し、散在した石仏をこの一画に集めて祀った経緯が立派な石板に掲示されています。
未登記の土地を地主が寄付登記をしてその後柏市へ移管しようとしたが、その場合譲渡所得税の発生となって負担が掛かることが判明。手続きをやり直したとの素直な経緯が刻まれています。面白!!
石仏群は左列に5基が並んでいます。
左から元禄十三年(1700)アーンク三猿庚申塔、安永八年(1779)バン大日如来塔、天保二年(1831)ウン青面金剛塔、普門品壱萬巻供養塔、寛延三年(1750)大乗妙典日本廻国塔となっています。
左には向かい合って10基の石仏、右方はお堂と石仏覆屋 |
未登記の土地を地主が寄付登記をしてその後柏市へ移管しようとしたが、その場合譲渡所得税の発生となって負担が掛かることが判明。手続きをやり直したとの素直な経緯が刻まれています。面白!!
石仏群は左列に5基が並んでいます。
左から元禄十三年(1700)アーンク三猿庚申塔、安永八年(1779)バン大日如来塔、天保二年(1831)ウン青面金剛塔、普門品壱萬巻供養塔、寛延三年(1750)大乗妙典日本廻国塔となっています。
右から2番目は文化八年日本廻国塔です |
向い合う5基は左から安永五年(1776)馬頭観音塔、不明石塔・石祠、文化八年(1811)日本廻国塔、文政三年(1820)青面金剛塔となっています。
左:需道(まつど)大権現、右:天蓋付子育地蔵 |
隣接した覆屋内は天保二年(1831)子育地蔵が子を抱きかかえています。天蓋付きとは珍しいですね。その脇は文政八年(1825)需道大権現石祠が祀られていました。待道ですね。
124-4.万松寺
柏市年表に天正五年(1577)開山と記された曹洞宗寺院。現在は無住で長全寺の所管。入口通路突き当たりに石仏がぽつんと祀られたシンプルなものです。
宝暦七年(1757)と安永二年(1773)が混在した六地蔵と宝暦五年(1755)延命地蔵が迎えてくれます。ちょっと殺風景かも。
124-5.三郡境のお不動様
松ヶ崎地区の西のはずれは高台の際になっています。今は竹林で眺望がききませんが、下から石段が上りついたところが松ヶ崎湧水の掲示があるところです。手水石と首のないお大師様が残されています。本当は「三郡境のお不動様」が祀られていたところでもあったようです。葛飾郡・相馬郡・印旛郡の三郡がであった場所なのでしょう。詳しくは下の解説板をご覧ください。
こちらには不動堂があって、倶梨伽羅不動明王が祀られている筈ですが見当たりません。湧水跡に御神水の碑があってその傍らに不明な石仏(地蔵?)が置かれているばかりでした。
松ヶ崎はこれまでとしましょう。
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