2009/04/03

31.北総石仏 白井Ⅶ

私の備忘録であるこのブログガイドは足の向くままの石仏巡りとなっています。適当なところで区切りをつけていますが、足の便を考えていないので参考とされる方は掲載の地図を参考に適当にご判断ください。 今回も北総線白井駅の北西近辺を巡ります。ますは白井市役所を目指し木下(きおろし)街道=県道191号に出て白井第一小学校を目印に向かいます。 31-1.上長殿・白井第一小学校前の徳本塔 白井第一小学校と木下街道を挟んで向かいの野原に8基の石造物が散在しています。道路に面し左から大正2年念仏講記念碑、文化十三年(1816)徳本塔、その横に文化十四年(1817)手洗石、背の高い明治35年馬頭観音塔、半身土中の文政四年(1821)馬頭観音塔、明治28年戦死者供養塔、年不明道標、明治35年十九夜塔となります。ここでの要チェックは徳本塔です。徳本塔とは浄土宗徳本行者の独特の書体を刻んだ名号塔を指します。徳本行者は宝暦八年(1758)紀州に生まれ大和吉野で修行し諸国を巡錫して念仏講を組織しました。「木魚と鉦を打ち鳴らし異口同音に念仏す」と甲子夜話にあるそうです。文化十三年(1816)二月十七日小石川傅通院を早朝に発ち、十八日は行徳源心寺から出立し鎌ケ谷大仏で有名な鎌ケ谷宿福田文右衛門方で食事をとった後、同日に此処白井に到着しこの供養塔の開眼供養を行っています。此項の関連記述は日本石仏事典・鈴木普二男著「白井の文化遺産史」に拠っています。 さてその徳本塔ですが写真のように丸に十の字で独特の花押ですが、「鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」と詠んだことに拠るようです。馬印の付いた馬頭観音塔も立派ですよ。31-2.上長殿の庚申塚 先ほどの野原の端にある十九夜塔横の道を西に向かいます。県道189号線を横断し図書館駐車場を右手に見て、林の中に通ずる道を約500m進みます。左に墓地が見える少し手前で左へ入る狭い未舗装を見逃さないように。突き当たりが庚申塚となっています。9基の庚申塔が並んでいます。左から天保十二年(1841)文字青面金剛王塔、嘉永元年(1848)文字青面金剛塔、元文四年(1739)庚申供養塔、明和六年(1769)合掌青面金剛塔、享和三年(1803)文字青面金剛王塔、延享三年(1746)合掌青面金剛塔、天和二年(1682)庚申待三猿塔、大正5年(1915)文字庚申塔、文化十年(1813)文字正面金剛王塔となっています。「玉」は気付かなかったのでしょうか?本当に玉にキズですね。(追記---石仏関係等の文字表現で偶数画数を嫌って奇数とすべく点を打つ例があるそうです。又、隠れキリシタン研究で「点→天」と結び隠れキリシタンの暗号と理解する解釈もあるようです。以上I先輩からのご教示です) これだけの庚申塔があればいつもの通りお猿さん関係の写真を3枚載せておきます。どれが該当するか適当に探してください。 31-3.上長殿・熊野神社の石造物 上長殿の庚申塚から300mほどで三叉路に出ますが右手三叉の分かれる所が熊野神社です。安政二年(1856)の石造明神鳥居をくぐると広くない境内にぽつぽつと石造物が置かれています。安永五年(1776)の金剛界大日如来像は貴重でしょう。文化十年(1813)疱瘡神石祠も当時の村の切実な願いだったのでしょう。こちらで一番古いのは明和五年(1768)の献灯ですが素朴な造りで僕は大好きですね。白井市内に熊野神社は折立の熊野神社(2月13日No.24-5で紹介済)とここ上長殿の熊野神社の二社しかありません。本殿の壁面の彫刻も凝ったものです。いつか紹介した本朝二十四孝の唐夫人(歯の悪い母親に母乳を与える孝行話)がありました。牛若丸ではないですが天狗を相手の若武者の図は何でしょうね?虎を相手の此図も分かりませんが、印西といい白井といいお金を懸けた社が多いのに驚きます。熊野神社斜め前に大きな三山+巡礼塔が3基あります。左から明治6年・大正9年・昭和34年塔と三世代揃っているのでそのうち平成の三山塔が加わるかも知れません。 31-4.法目・佛法寺の如意輪観音 熊野神社の三叉路で道を右手下り坂をとり道なりに約500mで佛法寺に着きます。門前左脇になにやら不気味な現代石仏が。元三大師(がんさんだいし)と呼ばれる天台宗比叡山中興の租・良源の石像です。詳しくは青字リンクのWikipediaをどうぞ。 本堂脇には七福神寿老人がブロンズの延命地藏とならんでいます。左奥には十三重石塔と白衣観音が見えています。白衣観音(びゃくえかんのん)三十三観音の一で息災除病の本尊ですが、ここのような合掌形は儀軌に無いようです。(一般には左手開敷蓮華・右手施願印) 白衣観音の脇に9基の石仏ですが、墓碑の如意輪塔や六地蔵が混じっているので気をつけましょう。左端は文化三年(1820)十九夜塔です。右から2基目は明治12年の十九夜観音ですが少しお腹が膨らんでいます。左隣は市内でも古い延宝三年(1675)十九夜塔・正徳四年(1714)十九夜塔と並んでいます。31-5.佛法寺横の庚申塚 石造物調査書には法目・八幡神社前庚申塚と表記されていますが、位置としては佛法寺横が妥当でしょう。道路沿いに10基の庚申塔と出羽三山塔2基が勢ぞろいです。少し離れて二十三夜塔が立っています。特色あるものを挙げておきます。左から4基目はここでも一番古い庚申地藏です。貞享四年(1687)の地藏ですが拡大すれば像頭部右上の「庚・」の字が読めると思います。台石も見辛いですが三猿を刻んでいます。そして隣が元禄十一年(1698)合掌型青面金剛像塔です。古いものはしっかり作ってありますね。右端は文化十三年(1816)の一石百庚申塔です。時代が下るにつれて数で勝負とばかりに百だの千だのと数の多さで競ってくるのは人間の性でしょうか。此間も埼玉県吉川で千躰庚申という珍しい石仏群に遇ってきました。いつかご案内しましょう。 31-6法目・八幡神社の不思議な石祠 庚申塚の先に八幡神社があります。正月十五日に豊凶を占う御歩射(おびしゃ)神事で有名な所です。正月25日訪問したのでまだその名残が残っています。(手作りの弓矢で左の的を射る神事) 境内はそれほど広くありません。左手には明治4年妙正大明神石祠、平成11年社殿整備の碑等があります。右手には昭和30年・43年出羽三山塔があります。そして三基の石祠群です。右から嘉永三年(1850)伊勢朝熊岳、中央は明治12年金毘羅石祠、左がこれから記す不思議な石祠(石塔)です。正面に「日本国中御神■■祈邑」とあります。左側面に「右者嘉永七年寅正月浦賀表江阿免リカ軍船渡来之節ご主人之加勢ニ相結メ折伏候て苗字帯刀弓鉄砲槍御免被下置 以上」と書かれているそうです。法目村・知行筒井氏家臣:嶋治良左衛門が安政二年(1855)に建立しています。嘉永七年(安政元年)一月十六日ペリーが浦賀に再来航した時のことと思われますが、北総の田舎でもその余震がこんな形で現れているのも興味深いですね。 31-7.法目・弁財天の道祖神 八幡神社の前に今では小さくなった池の中に弁財天が祀られていました。そして池の縁の林の中に道祖神が可愛いい小さな鳥居を前に鎮座していました。造立年は刻まれていませんがこの真新しさからつい最近のことと思われます。弁財天の前の道を左に曲がり車の往来の激しい道路に出れば国道464号で北総線が平行して走っています。700mほどで西に見えている白井駅に到着です。

0 件のコメント: