2009/04/10

32.北総石仏 白井Ⅷ

今回は白井市と柏市との境に沿って、梨畑の中ののどかな石仏巡りです。白井市の寺社は千葉県商工労働部HP「千葉観光まるごと紹介」で確認できます。
32-1.富塚・西輪寺の石仏
富塚・西輪寺は此シリーズNo.24白井Ⅱコース中の富塚・(歓喜天ある)鳥見神社の北方約1kmに位置するところにあります。通り道の農免道路に面していないので見つけにくいかも知れません。白井七福神(寿老人)の紅旗が目印です。門前には石仏というより石碑が多数像造立されています。山門右の西輪寺石柱の隣に4基の石塔があります。文政七年(1824)新四国札所霊場塔、寄進記念碑、嘉永六年(1853)三山大権現石碑、昭和25年文字馬頭観世音塔がならんでいます。門前左は年不明丸彫地蔵尊や平成8年東葛印旛大師組合結願記念碑などにぎやかです。山門をくぐって左に昭和14年光明真言塔に続いて3基の石仏が並んでいます。左から明和五年(1768)十九夜塔、延宝五年(1677)十九夜念仏結衆塔、年不明金剛界大日如来像となっています。真中の延宝石仏は貴重でしょう。又、智拳印を結ぶ如意輪観音はいないので石造物調査報告書の記載は誤記と思われます。境内には大師講参拝碑、五輪塔型3mに及ぶ大師堂再建供養塔、天保十年(1839)弁天由来記念碑(昔、寺園内に池を築き島を設け弁天を祀った由来)やしろい七福神寿老人などなど石造物各種混交状態です。私はちょっと苦手です。先を急ぎましょう。 
  32-2.富塚・大下墓地の馬頭観音 
西輪寺から約1km集落の中の細い道と梨畑を縫って四つ角にある共同墓地が大下墓地です。向かいの四つ角に忠魂碑が建っています。囲いがない墓地の道路に向かって4基の馬頭尊があります。左から自然石型明治36年、同明治20年で共に馬頭が線刻されています。次が万延二年(1861)文字馬頭観音、昭和16年馬頭観世音塔です。昭和16年馬頭観音は日支事変で出征した第三初桜号を供養したようです。時々このように名前の入った碑をみると、昔の人は動物でも共に生きた証をこのように心にもきざんでいるんだなあと感じます。電信柱の陰に道標がありました。「西 藤ケ谷、東 中ヨリ名内道、北 金山・・」建てたのは富塚機屋 川上定治郎とあり、確か風間街道の道標を建てたのと同じ人でしょう。
32-3.富塚・大下の大師堂
大下墓地の四つ角を右方向(北西)へ進み二股で分かれるところは右へ進み、最初の民家の塀沿いに左へ曲がって進むと屋敷林に囲まれるようにして西輪寺の大師堂があります。清潔な境内をみれば地元の堂守に大切に守られていることが分かります。上の写真で小さなお堂は印西大師大下番外掛所だそうです。これは本堂右手の写真ですが右後方の石碑は「人生は遍路なり」と刻まれた昭和62年巡拝塔です。左の石塔は元治二年(1865)札所巡礼塔ですが上部に大師像と如意輪像を頂いています。西国一番札所青岸渡寺の主尊は如意輪観音様だそうです。質実素朴な石塔で僕は好きですね。台石に萬人講とあります。沼南でよくお目にかかる講なのですが、どういう信仰集団だったのでしょう、要調査事項がまた増えました。本堂左脇には新旧の地藏尊が2体です。左が宝永六年(1709)で右が昭和55年(1990)ですが、281年の隔たりを経ても仲良くならんでいます。 
32-4.小名内(こなうち)の如意輪観音群
大師堂を出て小名内集落へ向かいます。小名内では集落の細い道を北上すると、右手林の中に10体の石仏群が一列にならんでいます。左端は写真に写っていませんが墓碑の地藏があるので気をつけましょう。上の写真左端は此中で最も古い元禄九年(1696)如意輪観音ですが惜しいことに大きく割れています。右は天保十年(1839)の左抱き子安観音です。上の写真左は年不詳の首無聖観音です。他は十九夜塔ですが、右端はみだしている角柱は享和二年(1802)巡礼塔で如意輪観音ではありません。 
32-5.小名内の稲荷神社石仏群
更に集落内の細い道を梨畑沿いに進めば、左に稲荷社と小名内公民館のある広場があります。赤い鳥居の稲荷神社参道に庚申塔が林立しています。田舎によくあるように参道入口は散漫な感じで石造物が置かれています。右端から宝暦七年(1757)道祖神石祠、天保十五年(1844)手水石、異体字で文政六年(1823)と刻まれた文字庚申塔、嘉永四年(1851)庚申塔です。次も右から元文元年(1736)合掌型青面金剛、天保十一年(1840)文字庚申塔、宝永七年(1710)合掌型青面金剛塔となります。その隣は享和元年(1801)文字青面金剛塔ですが下の三猿が手を伸ばしていてちょっと面白いですね。上の写真の石碑は蛭子太神宮塔ですが、多分初出でしょう。蛭子神が流されてたどり着いたら恵比寿紳になってたなんて知ってました?ウィキペディアで確認しておきましょう。ところで参道奥の稲荷社はこんな感じです。左の建物は小名内公民館です。稲荷社から右へ文久二年(1862)三峯大権現石祠、天保七年(1836)疱瘡神石祠、天明二年(1782)文字二十三夜塔、宝暦七年(1757)鳥見大明神石祠、天明二年(1782)疱神石祠と続いています。他にも明治の「猿田毘古」塔や江戸大正昭和の庚申塔や道祖神があります。又、境内反対側には印西大師三十七番のお堂もあり、中に文明十三年(1481)青石板碑残欠が置いてありますが写真は控えておきましょう。 今回はこれまでとしましょう。

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