33-1.今井・稲荷神社の庚申塔
白井から白井工業団地へ向かう道路を白井市の外れまで進むと今井堤を横切ります。此処は春、2Kmに亘って淡い色の桜のトンネルが出現する名所です。今井堤に出る手前の道を右に入れば今井集落の稲荷神社の森が左手にあります。拝殿に通ずる小道に庚申塔など13基の石仏です。左から見ていきましょう。まず、昭和三年「御大典記念 庚申塔」、頭部に種子バク・釈迦如来像を戴く正徳二年(1712)六十六部廻國塔、明治39年文字庚申塔、文久二年(1737)六臂ショケラ持青面金剛となっています。像塔は写真を載せておきましょう。次は寛政七年(1795)青面金剛王、文化七年(1810)青面金剛尊、明和七年(1770)六臂合掌青面金剛塔、文政九年(1826)文字庚申塔となっています。明和七年青面金剛塔の頭部蛇とぐろ巻きははっきりと刻まれていました。恒例の文字塔・面白い三猿も載せておきます。左のお猿さんは後ろ向き・上向き「いわザル」でしょうか。中央はメス猿でしょう乳房があるように見えますが、これにお尻を向けているポーズも変ですねえ。
次は天明二年(1782)青面金剛王塔です。その隣から此写真となります。明治20年文字庚申塔、延宝八年(1680)六臂合掌青面金剛塔、宝永二年(1705)庚申三猿塔、平成2年庚申塔となります。上の写真の延宝八年は市内でも結構古いものです。次の三猿塔も良く見かけるようです。この先は稲荷神社に続きます。境内にぽつぽつと石造物があります。ここにも明和四年疱瘡紳石祠がありました。病気は庶民農民にとって本当に切実な問題だったのですねえ。榎本正三著「赤の民俗 利根川流域の疱瘡神」にも載っていますが、北総から利根川を越えた取手市には男女二紳刻像の特殊な疱瘡神塔が18基も遺存しています。参考に取手・青柳八幡神社の刻像疱瘡神二基を載せておきます。左が天保六年(1809)で男神が幣束を肩に担ぎ立ち姿、女神は長髪で皿椀物を持ち中央に三玉大明神と記されています。右は天保三年(1806)で上部に二神坐像を刻み牛蒡締め状の注連縄がはっきりと出ていて、下部には疱瘡神 東坪中と表示されています。利根川を越えただけでこれほど信仰モニュメントに違い出てくるとは、面白いし又不思議でもあります。
33-2.今井の青年館の石仏
稲荷神社から500mほど東進するとバス停今井青年館があり、白井第3分団今井消防小屋の隣に青年館があります。入口左の大師堂の陰になって一見して石仏なぞ見えませんが、一歩中に入ると写真のように石仏アワアワ状態になります。7基の石塔5基の石祠等が一列にならんでいます。露天のために傷んでいるものが多いのですが、結構特色のあるものが多いんですね。では、左から寛政六年(1792)金剛界大日如来、3基続いて明和七年(1770)・享和二年(1717)・文久二年(1737)十九夜塔が並び石仏隆盛の幕開けを感じさせます。続いて天保十一年(1840)二十三夜文字塔が並び次に2基の元禄十三年(1697)・年不明十九夜塔が続きます。上の写真の子安観音石祠は女人講中十四人で造立されましたが刻像石祠は初見ですが珍しいものです。次から4基の石祠石塔が続きます。文政十二年(1829)・嘉永五年(1852)待道大権現石祠、不明石祠、文化十三年(1816)十九夜塔です。待道権現(まつどごんげん)石祠は白井ではここだけと思われます。待道権現信仰は利根川を挟んだ茨城南部・千葉県北部の地域的流行紳で、十七日を祀り日とする婦人達の子安講であると石造物調査書に載っています。我孫子地区の調査時に多出すると思います。他にも新しい六地蔵の陰に傷みの激しい享和二年(1802)一石二体六地藏があります。大師像も文政八年(1825)・安政九年(1859)の2体あり文政期のものは地区内古手です。当地区では印西大師(4月1日~9日)、柏大師(5月1日~5日)、白井大師(10月1・2日)の大師参りが行われていると調査書に載っていますが今はどうでしょうか?興味のあるところです。
今井青年館バス停で道路の向こう側に「今井の水塚」の説明板があります。ついでに読んでおきましょう。
33-3.名内・東光院の石仏群
今井青年館をあとにして更に400mほど東進、右に戻るようにして集落への道路を右折して道なりに進めば右手に東光院があります。寺前に広場があって縁の沿ってお堂や石仏が点在しています。夕暮れ時でくすんだように見えた石仏石塔ですが、「恐るべし石仏パワー」というのは大袈裟ですが調べると特色のある石仏が沢山あります。丁度檀家の集まりがあったようで、お断りしてから拝見させていただきました。唯、惜しいことに風化が進んでいて読み取りが難しく石造物調査書に頼るしかなかったですね。
では、写真左端から明治13年子安観音が祀られているお堂です。新しいので穏やかな感じの石仏でした。隣とのお堂の間に年不明十九夜如意輪石仏がおられます。隣のお堂には宝暦十一年(1761)薬師如来石仏がおられます。北総では、なかなかお目にかかれない貴重な石仏です。お前立ちの石仏が続けて並んでいますが何れも墓標仏なので気をつけましょう。続いて隣のお堂には年不明不動明王と大師像が仲良く同居しています。そしてこのお堂と隣の六地蔵の間に文化十二年(1815)の一億供養塔と呼ばれる道標を兼ねた名号塔が立っています。この塔はNo.31-1で紹介した徳本塔を立てた一億講中(徳本上人の當地元信仰集団)の造立になるものです。「右 かたやま ぎょうとく みち 左 しろい いんざい みち」と刻まれ名内橋におかれたであろう道標でもあります。ならば、もっと目に付きやすい所に置かれたほうが引き立つのですが、惜しい。六地蔵は安永二年(1773)の造立です。写真で右端、六地蔵の陰になる位置に3基の石塔です。左から文久二年(1862)、天保二年(1831)の出羽三山塔です。もちろん江戸末期なので湯殿山主尊となっています。右端は宝暦十一年(1761)六十六部廻國塔であります。何れもお堂の後ろに追いやられているのはちょっと可哀想ですね。
本堂の左手に進むと縁沿いに寛延三年(1750)十九夜如意輪塔が置かれています。そしてその続きのように、角に沿って7基の石仏が並んでいます。左から宝暦七年(1757)地藏塔ですが大乗妙典六十六部日本廻国と刻まれた廻國塔ですね。隣が延命地藏経三千巻と記された宝暦四年(1754)地藏坐像となっています。延命地藏は錫杖持ち立像が定番ですが座った地藏が面白いですね。そして隣は寛文十三年(1673)阿弥陀如来像で右手施無畏印・左手与願印を結んでいます。この石仏に関しては、鈴木普二男著「野ざらし紀行 白井の文化遺産史」で「名内碑・松平住右衛門への謎」で考究されています。この石像の願主の一人・松平住右衛門は名内村の領主でしたが、寛文二年(1662)に知行替えになって何年もたってから願主に名を連ねたのは謎だとした趣旨の一文です。オマケに石造物調査報告の銘文が不正確と思われたのか詳しい銘文を掲げられています。興味ある方は一読されると良いでしょう。但し、その要旨に関心をもたれるかどうかは別ですが。
となりの地藏と聖観音は墓碑で割愛します。次の2体は貞享五年(1688)・寛文十一年(1671)如意輪観音塔ですが、古い時代によくある念仏衆による設立で貞享碑は念仏数萬遍・寛文碑は二萬遍の奉唱と刻まれています。寛文像は六手で彫りもよく「昔の仕事はこうでなくちゃ」と職人仕事の成果でしょうか。如意輪観音信仰も、女人信仰に移行する前の時代は念仏衆の形で信仰心の篤さをを律儀に碑面に表していたことがわかります。一通り境内を見終わりました。帰りに本堂前の立派な十三仏供養塔をチェックしておきましょう。人の死後はこの星道を歩んで天に上るとの解説も読んでおきましょう。
33-4.名内の粟島神社の石祠
東光院前を右手方向へ南下し二又では左をとって進めば200mほどで粟嶋神社が右手にあります。石段を登った境内がこの写真のように現れます。さて写真左手に見えるちっちゃな石鳥居はなんでしょう?正解は、潜り抜け鳥居と名づけられ「病難苦難を潜り抜けて無病息災」ご利益ある鳥居だそうです。拝殿左の木の陰で見えませんが3基の石祠が並んでいます。左から寛政三年(1791)稲荷大明神です。次は明治28年八坂神社石祠、一番奥が慶応四年(1868)粟島大明神石祠となっています。この石祠正面は大己貴命・粟島大明神・少彦名大命の三神連記となっています。又、石造物調査書の弘化四年(1847)淡島神碑はお堂の中に鎮座されていました。うっすらと「淡嶋大明神、観世音普門品」と読めますね。
淡島(粟島)信仰に関しては榎本正三著「女人哀歓-利根川べりの女人信仰」に詳しく、最近では「房総の石仏18号」で石田年子氏論文「利根川中・下流の淡島信仰-野田市を中心として」に淡島願人の図や千葉県下47箇所の淡島塔関係碑が詳説されています。白井市ではこの2基と神々廻(ししば)駒形神社で報告する1基の計3基が載っています。淡島神社と淡島神についてはいつものようにリンクで確認しておいてください。
この粟島神社も昔は「あわしまさま(針供養)」として2月8日に裁縫生徒がお参りし、県下柏・市川・船橋・八千代・印旛一円から参詣客を集めたと言われています。往時の賑わいを取り戻すには潜り抜け鳥居ではちょっと無理、むしろ淡島信仰の解説を復活して参詣客に知ってもらうほうが為になると思いました。
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