70-1香取神社の板碑補足(沼南風土記より引用)
左写真の十三仏板碑はWikipediaから分かるとおり死者供養で初七日から三十三回忌まで不動明王から虚空蔵まで各忌日に配合した信仰です。胎蔵界大日を主尊に種子を下から上へ配列しています。板碑は不動明王・釈迦・文殊を欠いています。中央の二十一仏板碑はの二十一仏は最澄が比叡山の守護神と祀った上・中・下社各七社の総称で山王権現ともいわれます。山王社の使い猿が庚申信仰と結びついています。板碑は種子バクを上に頂き5行4列の種子が刻まれ、下部に「奉庚申待供養」とあります。右端の阿弥陀来迎板碑は写真では判読できませんが天蓋の下に放光阿弥陀三尊が端雲に乗って来迎する姿を画いて三具足・前机が揃っているそうです。中央下部に「庚申待供養」の文字もあるそうですよ。
さて今回は国道16号線で分断された南地区を回りますが、この地区ではなんと言っても鮮魚街道(通称なまみち)の常夜燈と呼ばれる石造物が一番の有名文化財です。
71-1鮮魚街道常夜燈
鮮魚街道とは江戸時代~明治中頃にかけて銚子で獲れた魚介類を日本橋魚市場に運ぶ舟運荷駄ルートを指します。簡単な説明は写真の解説板をご覧ください。いくつかルートの変遷はありましたが、銚子~木下(きおろし)河岸~発作(はっさく・印西市)~布佐河岸(我孫子市)~(手賀沼)~船戸(白井市)~富塚(白井市)~藤ケ谷・台町~金ケ作(松戸市)~日暮・松戸新田・陣ヶ前(松戸市)~松戸の河岸~江戸日本橋魚河岸へ3日かかる行程です。常夜燈のある台町は木下と松戸の中間点にあって昼夜兼行の輸送路で大事な中継ぎ所だったようです。解説には刻字内容が縷々書かれていますが、石の痛みや彫りの浅さなどで常夜燈からはほとんど読み取れません。「天照皇太宮・金刀比羅大神」と刻まれているらしいのですが。
71-2成田道・道標
鮮魚街道はこのように整備されているので、一般の人は成田参りに使用する道でもありました。そのため、成田道として(成田山)不動明王
の標石が点々と残っていたりします。白井の鳥見神社で紹介したイ富塚の不動明王道標(安政五年1856)を再掲しておきます。この道標を西に進むとセブンイレブン裏にロ藤ケ谷台町の不動明王道標(文化十五年1818)がぽつんと残っています。常夜燈をさらに進めは自衛隊正門前をすぎて右の芝生斜面に小さなお堂がぽつんと残っていますが、この中にハ不動明王(文政十年1827)がおられます。道標にはなっていないようですが、鮮魚街道道筋であるところから成田参りの女人講中で建てたのでしょうか。
71-3金比羅堂(廃堂)
冒頭の掲載写真=金比羅宮と大沼沈山撰碑の解説板があるところが金比羅堂の入り口です。石段を上ったところお堂は壊れシートがかかって無残な姿でした。沈山撰碑が立派なだけに余計に哀れを誘います。
常夜燈へ行くT字路坂道を通り過ぎてしばらくで右に入る小道の先に、薬師堂の平屋がある墓地があります。新四国霊場十七番のお堂と天満宮石祠を祀るお宮が並んでいます。その左手に十二・三基の石塔が雑然と並んでいます。かなり年月に荒らされていて痛々しい感じがします。右端は元禄十五年(1702)十九夜念仏如意輪塔、左隣は延享五年(1748)延命地像塔、墓碑などが並び左端は享保二年(1717)十九夜如意輪塔となっています。お堂の中で文化十三年(1816)金剛界大日観音塔と弘法大師像が並んで鎮座しているのにはちょっとびっくりします。
71-5鮮魚街道の馬頭観音
常夜燈のある相馬商店(閉店)から約100m上り坂を西進すると右手に共同墓地があります。その道路際に3基の石仏です。中央・左の2基は馬頭観世音塔とわかりますが右石塔は不明です。左=明治41年、中央=文政六年(1823)馬頭冠付の馬頭観音塔です。右=文政五年(1793)馬頭観音坐像が剥落したようです。ここは荷駄の馬が行き交った輸送路沿いです。きっと輸送の安全と馬の健康を祈願した人々の願いがここに名残をとどめているのでしょう。
71-6藤ケ谷向台の庚申塔
香取神社がある国道16号藤ケ谷交差点から柏方向へ約200m進むと歩道橋があります。歩道橋下の角を左に400m進んだ竹林中の道に4基の庚申塔が並んでいます。写真右は文政六年(1823)六臂ショケラ持青面金剛塔です。次に嘉永四・七年(1851・1854)の文字庚申塔、左端は天保十五年(1844)文字青面金剛塔となっています。人気の無い藤ケ谷新田との村境に当るところと思われますが、村人が手向けた花に根付いた信仰の篤さがうかがえます。
より大きな地図で 71北総石仏 柏・旧沼南町の石仏ⅩⅤ(藤ケ谷2) を表示
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