2010/04/23

73北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(高柳Ⅰ)

藤ケ谷の西隣が高柳地区になります。東武野田線の高柳駅もあって住宅地のイメージが強いですが、北部はまだまだ農村部が広がって石仏信仰も残っているようです。話は飛びますが、最近Google Earthのストリートビューが国道16号線の内側をカバーしていることを発見しました。ストリートビューで石仏を探し出すことも出来るので、使える方は一度チャレンジされることをお勧めします。高柳老人クラブでは庚申塔に紅い幟を付けていて見付け易くなっています。このブログの大きなGoogle地図からも使えるので一度試してみるのも面白いですね。
高柳地区は石仏の密度と種類が濃くてなかなか楽しい所です。

73-1徳本念仏塔と馬頭観音
高柳地区の最北部で塚崎地区神明社と向かい合う位置に旧称「とくほん」と呼ばれる一画があります。この地に立派な覆屋に堂々とした4基の石塔が並んで祀られています。右から明治29年弘法大師供養塔、文化十五年((1818)徳本念仏塔、文政十二年(1829)光明真言塔、年不詳弘法大師供養塔建設碑となっています。徳本行者はこのブログでも白井地区や鷲野谷地区・医王寺でも既出ですが、Wikioediaで再確認しておきましょう。写真でも徳本の丸に十字の花押が見えています。独特の「南無阿弥陀仏」はおなじみですね。面白いのは石塔裏面も裏返しの字(左字)が刻まれていることですが初見ですね。徳本上人は文化十二年二月~三月と文化十四年七月~十月にかけて下総~銚子まで順錫していますが、この地の徳本塔は2回目の時に順化されたもののようです。このときの道中は江戸~銚子の鮮魚街道を利用し、松戸→白井→木下河岸→銚子ルートでした。台石に刻まれた村名は高柳・藤ケ谷・佐津間・箕輪・藤心・軽井沢(鎌ケ谷市)・根戸・塚崎・増尾・酒井根・大井・戸張・名戸ヶ谷・柏・呼塚新田・川越新田・篠籠田・長崎・大島田・三ノ輪山・前ヶ崎・高田・半田・増尾新田・西平井・古間木・前ヶ崎・逆井・松ヶ崎の28村200名余りの寄進を請けての建立です。すごい。
右端の大師供養塔と徳本塔の間に小さな丸石が置かれています。うすく「西孝心橋」と読めますが、富士信仰の一派・不二道孝心講が行った土木工事(佐津間落し=大井川に架橋)の標識石であるそうです。

73-2徳本脇の庚申塔と馬頭観音
項目を分けるほどではないのですが、目前に赤い幟がある青面金剛塔が1基と斜面に5基の馬頭観音塔があります。紅い幟はこの地区の庚申塔があるところに付けられているので良い目印になります。高友会という老人クラブの活動によるものでしょう。青面金剛は宝暦五年(1755)の六臂合掌型です。馬頭観音はすべて文字馬頭観音で左から昭和48年・文久二年(1862)・文政五年(1822)・大正五年・年不明となっています。蛇足ですがストリートビューで庚申塔が見えるので下のGoogle mapの大きな地図からお試しください。大きな地図で左上の人型を道路上にドロップすると道端にある石仏が捕らえられます。

73-3善龍寺の石仏
徳本から道なりに約500m村の中に入ると左に善龍寺の参道・駐車場があります。高柳山善龍寺龍正院という天台宗のお寺で元の本寺は、印西市和泉の泉倉寺(既出)です。駐車場には八十八箇所巡拝記念碑・比叡山参拝記念碑などが佇立しています。正徳三年(1713)素朴な六地蔵も祀られています。當寺はもともと東側県道船橋取手線を跨いだ広い境内であったものが、県道で二分された経緯があります。元の伽藍は県道を越えた東側台地に「堂屋敷」と呼ばれて広がっていたそうです。今は県道西側平地に本堂が移転しています。参道から山門を入ると右に御手洗と如意輪観音堂、およびその周りに石塔・石碑・石造物が固まっています。写真は手前2基が大正13年・同15年善光寺参拝記念碑です。手前の石碑は頭部に阿弥陀三尊種子・阿弥陀如来=キリーク・観世音菩薩=サ・勢至菩薩=サクを刻んでいます。奥の碑は明示29年線刻釈迦三尊碑で印土伽耶道場地模(刻)と下に彫られています。不勉強で判らなかったのですが、上の不思議な3体の石像は一体何をあらわしているのでしょうかね?
お寺でよく見る「アビラウンケン」種子は下左の写真の大日報身真言が一般的ですが、このお寺では下右の写真「アバンランカンケン」種子の大日法身真言となっていました。報身や法身はなんじゃという方はWikipediaをご覧ください(私には理解でき×○▲?)
信州上田・前山寺
善龍寺・昭和40年
墓地には彫りの深い寛文十二年(1672)延命地蔵と文政五年(1822)如意輪観音塔などわずかな石仏しか見られませんでした。當寺では文久元年(1861)上野寛永寺住職から頂いた五葉松が市指定天然記念物として保存されています。

73-4福寿院の石祠石塔
善龍寺から直線距離で南西300mの所に沼南幼稚園を併営する真言宗豊山派の福寿院があります。沼南風土記には「当院は檀家を持たず代々、地区の鎮守香取神社の別当を勤め氏子によって支えられてきました」と記述があります。後述の石祠の整列などを見るとなるほど頷けるのではないでしょうか。
当院の境内には正面に茅葺の入母屋破風造りの観音堂がどっしりと構えています。その手前に寛延四年(1751)六地蔵が並んでいます。脇に高柳小学校(明治6年3月開校)風早南部小学校発祥地の石柱が建っています。観音堂の参道脇の築山に矜羯羅童子(こんがらどうし)・制多迦童子(せいたかどうし)を従えた成田山月参講の小さな不動塔も見えています。観音堂の右脇境内に石造物の整列です。右から覆屋に入った嘉永四年(1851)待道大権現、安政五年(1858)「大杉殿」石祠、墓碑と続いています。元禄二年(1689)十九夜塔は比較的古い年代物ですね。となりには補教試補渡来先生の筆子塔も並んでいます。境内手前の二十三夜塔(大正五年)も自然石型ですがすっきりスマートに見えますね。福寿院では昔は正月二日に近在の馬養農家が馬を連れてきてお払いを受けるのが慣例だったと沼南風土記に書かれています。同じく境内に昭和63年設置された大きな動物供養碑(上の写真)はその流れでしょうか?頭部に当院本尊十一面観音の種子キャを刻み、豚を中心に牛・犬・兎・鶏・馬を描いています。当時は養豚が盛んだったのでしょう。
築山を左に進んだ庭園垣根際に明治30年三神塔が置かれていいます。天照皇大神宮・八幡大神宮・春日大神宮と刻まれて当院が香取神社の別当寺だったことを思い起こさせます。

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