2011/05/16

107 北総石仏 久寺家(くじけ)

ゴールデンウィークはパソコンが故障し散々な休日になりました。パソコンを修理に出すと怠け心が忍び寄ります。備忘録としてのブログ作成がおざなりになってしまいました。心の弱さが身にしみます。あと少しで我孫子も終われるのですが。
107-1 宝蔵寺の北向不動(庚申塔)

真言宗明王山宝蔵寺は国道6号線水戸街道の久寺家信号を500m北上した高台にあります。台地の突端、久寺家城二の郭址に位置し手賀沼が望める景勝の地であったようです。寺伝に元和三年の(1617)創建、宝暦三年(1753)銘の半鐘があるお寺です。相馬霊場では地形が四国の屋島に似ているところから、第八十四番讃岐国屋島寺移しとされています。
車道から山門を入ったところ
 左から上がっていく車道を進むと、右手に六地蔵、山門を入った左の築山のような塚上に石造物がオンパレードしています。樹木の陰にも安永八年(1779)新四国道標明治9年月山・百観音巡拝碑などが寄り集まっています。築山を回りこんだ先の大師堂には天保十五年(1844)大師像なども。
それでは北向不動に向かいます。山門を戻るように進むとその途中に十九夜塔や出羽三山碑・普門品供養塔が並んでいます。
中央左が寛文九年・右は元禄十三年の十九夜塔
寛文九年(1669)は反手の如意輪観音
さらに進むと元禄九年(16969三猿庚申塔・平成9年馬頭観音塔・昭和9年百観音巡拝碑などがあります。その隣の覆屋には延享二年(1745)馬頭観音塔が祀られています。
左が平成9年馬頭観音塔、右が三猿庚申塔
 回り込んで進むと、明治39年待道大権現石祠が社地を構えて祀られています。そしてたどり着いたのが北向不動尊の表札をかけた庚申塔です。

立派な享保四年(1719)数珠持剣人型青面金剛塔がなんでこうなっちゃったんだろうと不思議です。台石にも三猿がついていますし、お不動さんにするには何か由来があるかもしれません???
17-2 鷲神社の庚申塔群
宝蔵寺から200m西進し細いT字路を下る鷲神社(おおとり)があります。

我孫子市史によると平将門の家臣久寺家豊後大炊左馬助が勧請したとの由来あり、元文二年(1737)万延二年(1861)昭和53年に社殿が造営されてきました。現社殿は平成6年に新築された5本の鰹木をのせた現代的なお社です。
左右の神使は鷲となっています


大正三年に下居村附の明治41年香取社・上居村附の八坂神社・神立台の明治26年雷社を合祀しています。又、天保九年山神・昭和53年水神・文化二年石尊大権現・明治27年久寺家祖神・大杉大明神・昭和2年天満天神・今宮社・宝永四年二十三夜様・大正14年尾鑿賀蘇山神社なども祀られています。狭い敷地の本殿周りに神々の大集合というところでしょうか。
さて、石段を上った参道の左右に庚申塔の勢ぞろいです。
左側6基の庚申塔、右には馬頭観音や3基の庚申塔
参道左は手前から文政十三年(1830)・寛政六年(1794)・宝暦九年(1759)の青面金剛文字塔が並びます。元文五年(1740)のショケラ持六臂青面金剛像塔・天保十年(1839)・弘化五年(1848)青面金剛文字塔の6基が並びます。久寺家中学校裏から移設されたものです。
元文五年塔ショケラが重そうです
参道右は、10基の石仏が並んでいます。手前には紀年不明の馬頭観音塔があります。


側面に「南無大悲馬頭大士・志馬畜類祓?苦引導」を刻んだしっかりしたものです。明治19年自然石型文字庚申塔は台石に三猿が居ます。文化九年~明治19年まで文字庚申塔・青面金剛塔が6基並んでいます。お猿さんなど気になるものを載せておきましょう。
慶応四年・文字庚申塔の見・聴猿は片手の仕草
安政五年塔は扇子・桃?持ちでしょうか。
明治19年庚申塔の三猿は足ブランコみたいです
本殿を取り囲むように先述の合祀された神々が祀られています。その一角で覆屋の中に三夜様と呼ばれる宝永四年(1707)勢至菩薩様がおられました。すっきりと出来のよいお姿です。
又、伊勢講碑・敷石供養碑など8基が造立された一角に明治44年庚申供養塔が立っていますが、裏面に庚申講で石橋架橋を記念しています。
後列右端が明治44年庚申供養塔
 じっくりみてもたくさんの楽しみがある観仏スポットでした。

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