2011/10/23

122 北総石仏 柏の石仏 豊四季

明治になって下総牧々の開墾が奨励されました。開発会社が設立されその下で明治二年十月から移住が開始され、最初は中野牧からはじまりその開拓地は字名「初富」と称しました。以後移住した牧々は数字を持つ字名を当てられ、「二和」「三咲」から「十余三」まで十三の集落が成立しました。新京成電鉄の駅名に多く点在し、東葛地区の住民ならご存知の方も多いでしょう。
柏市では今回の豊四季(上野牧)と十余二(高田台牧)が、三井八郎衛門の引請地で開墾が開始されました。豊四季は明治二年11・12月に122戸478人が移住しました。開墾は困窮を極め明治5年までに約半数五十数戸が脱落しました。明治5年5月には窮民を独立農夫にすることをひきかえに開発会社の開墾事業に終止符がうたれました。(テキスト「柏のむかし」から参照引用)
興味ある方は以下の画像を拡大して、開拓百年記念碑の切々たる文面でその困難な様子をご理解ください。
豊四季稲荷神社境内・昭和48年碑
122-1 一本松稲荷神社
豊四季は前回・前々回の篠籠田・旧柏地区の南にあたる地区ですが、国道6号線や東武野田線で微妙に分断されて分かりにくくなっています。東武野田線豊四季駅の南口交差点を西進800mで、西松や流山店の前に一本松稲荷があります。シンプルな鳥居の先、左側には豊四季公民館が建っています。その奥に簡素な社殿の一本松稲荷神社がおわします。
写真左に見えるのが昭和55年に植樹された三代目一本松なのだそうです。
古くからの石仏は見当たりませんが、当社は明治34年道灌坂に建立された御嶽神社を昭和8年に合祀しています。その石造物がめぼしい石仏ということになります。
御嶽神社碑は、右に八海山左に三笠山と刻字
周囲に五基の石碑が建っています。左から 摩利支天神社、御嶽講によく見かける普寛行者碑、香取神社、清瀧弁財天、金剛童子となっています。

そしてこの磐壇の手前には、種字カンマーンも鮮やかでスマートな形の不動明王石塔が建っています。お約束の制多迦童子・矜羯羅童子も刻字されていますね。
122-2 豊四季稲荷神社
一本松稲荷を700mほど南下すると稲荷神社前交差点です。角地の高台に稲荷神社があります。
昭和55年の石鳥居の奥に昭和60年狛犬・平成12年石灯籠が並んでいます。左の灯篭奥に神使のお稲荷さんが祀られています。狛犬の手前に明治34年山神宮石塔が立っています。
丸型自然石で山神宮は初見です
台石に杣連世話人と刻まれています。今では住宅地となったこの地も、明治後期では杣仕事をする人がまだ17名もいるような雑木林であった様子が偲ばれます。
石仏はもうないのですが興味深いのは、大正3年公爵岩倉具視報恩碑 と昭和48年豊四季開拓百年記念碑です。冒頭に載せた碑はこの神社の境内右手前に高々と建立されています。碑文をご覧頂くと、豊四季に続いて五香六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三との記載が見られますよ。
開拓地は開墾会社を引き受けた三井から、その後大隈重信・岩倉具視・青木周蔵らに譲渡されました。岩倉碑はこの地の大地主であった岩倉公の記念碑のようなものと理解されます。
122-3 豊受稲荷(ゆたかいなり)
正一位 豊受稲荷本宮の赤いのぼりが旧水戸街道の県道261号線に立っています。細い路地の奥が参道をかねています。壁際の赤い幟が所狭しと並ぶ様子は信仰の厚さがしのばれます。
 
左側は民家アパートですね


参道を進み赤いのぼりが途切れた陰に石祠のひな壇が現れました。ひな壇中央には現代版の猿田彦大明神碑(庚申塔)が立てられています。
二世安楽の現代版家内安全・交通安全の刻字と下部に線彫り三猿
 キャスティングは右前列から白蛇弁財天・金神大明神・諏訪神社・水神大神、2列目右から稲心坊稲荷大明神・分高谷稲荷大明神・愛染坊稲荷大明神・三峰神社、3列目右は御嶽大明神・左は石清水八幡宮となっています。左の白蛇の後列は昭和6年笠間稲荷大明神・大正15年稲荷石祠となっています。稲荷だか弁天だか分からない状態です。旧資料にある弁天谷神社が未見となっていて、あるはこちらが合祀されたものかもわかりません。
余談ですが、豊四季の字名地は広く豊四季台団地は昭和3年~27年まで(元)柏競馬場があったそうですね。東武野田線には気象大学校近くに柏競馬場前駅もあったとか。また我孫子に住んでいた杉村楚人冠の勧めで2万坪のゴルフ場が造られた由、その跡地が今のJR東日本社宅地であるという話ですね。
122-4 小金原の野馬除け土手跡
近くを走る東武野田線をはさんで、豊受稲荷の反対側に広大な日立柏サッカー場があります。その近く緑ヶ丘交番前交差点の角に、野馬除け土手の遺構が残されています。
平成3年名戸ヶ谷郷土会で下記碑文

「柏市は古くから下総の牧として軍馬の産出地でもあり、江戸時代には市の大半が幕府領小金牧となりここはその東寄りに位置するところである。近隣農民に野馬除け土手を築かせ放牧馬を山犬や野火から保護し、多くの騎馬や農馬が養産された。この野馬除け土手沿いには野馬井戸と呼ばれる馬の水のみ場としての湧水池があった。・・・」


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