長楽寺の入口で北向道祖神が集団で迎えてくれます。期待が膨らみます。
坂を下っていくと右手に本堂を横切るような格好になります。本堂の前に県有形文化財となっている当寺の梵鐘の説明版があります。九世紀前半に創建され応安二年(1367)に寄進された梵鐘について解説されています。本堂に一礼後読んでから更に左手方向の山門をくぐり階段を登れば観音堂左手に庚申塔が八基揃い踏みです。 左から明和?年の青面金剛王・文字塔、明和四年(1767)合掌型六臂像、享保十年(1725)ショケラ持ニ鶏付六臂像、享保七年(1722)ショケラ無六臂像、寛延四年?青面金剛尊文字塔、宝暦十三年(1763)ショケラ持ニ鶏六臂像と続きます。次は「おおっー」と思わず驚きの声を上げてしまいます。なかなかお目にかかれない豪華キャストの正徳五年(1715)青面金剛像です。ショケラ持ち、ニ童子、三猿、ニ夜叉、ニ仁王付です。特に仁王というのが気に入りました。青面金剛の経軌(陀羅尼集経・第九)では四臂三眼ニ鬼ニ童子四夜叉のようですがメンバーは多ければ多いほど功徳もあるでしょう。 右端がこの地区最古の天和三年(1683)の三猿文字塔です。
6-2大森変電所前の庚申塔
長楽寺から県道4号千葉竜ヶ崎線を南下します。およそ700mほどで左手に東電の変電所が見えてきます。その県道をはさんで右手に四基の庚申塔です。 左から嘉永五年(1852)、寛政七年(1795)、文化九年(1812)、文化二年(1819)です。丁度小さな川を渡った村境の位置にあります。左から2番目の合掌型正面金剛は宝輪は右手に持ち左手第1手はクルスの様な法具をもっています。
6-3鹿黒公民館前石仏
公民館の裏手の道沿いにこのように並んでいます。左手は明治三十一年の馬頭観音文字塔です。写真中央に見えるのは正徳四年(1714)刻像馬頭観音です。その隣が十九夜塔、大六天となっています。馬頭観音は馬乗りではありませんが三面ニ臂で状態のよいものです。この石仏の側に安政四年(1857)の咳神様が鎮座しています。すっきりとして霊験あらたかそうです。 尚、この公民館がある四つ角に「南 庚申・・」と刻んだ道標が立っています。 「西 和泉・小倉道」と読めます。 6-4鹿黒火の見下の石仏群 公民館の先に火の見が見えます。その三角状の土地にこのように21体並んでいます。テキストには貞享三年(1686)等十九夜塔8基、庚申塔7基、元禄三年(1690)刻像二十三夜塔、享和二年(1802)子安塔、花見地蔵1基の18体となっています。 これは花見地蔵です。(欠)見堂の文字が読み取れます。 ところで石仏を数えてみると21体あり、うち像容不明2体でした。差し引きすると1体合いませんがこれは下の二十三夜文字塔が記載省略されていたからでしょう。この二十三夜文字塔左側には「左 江戸みち」と読めます。道標を兼ねていたようです。 6-5鹿黒八幡宮の石祠 400メートルほど道なりに進むと右手角に共同墓地があります。その角の道を右に下ってすぐ左手に鳥居が見えます。階段を登っていけば鹿黒八幡宮です。社の左手奥に石碑が点在しています。このあたりあたりは伊勢講が盛んだったのか大正10年、昭和30年、39年、41年、43年、平成6年の伊勢講関係石碑「天照皇太神宮(内宮)豊受大神宮(外宮)」を刻んだものが点在しています。足元にご注意ください。 ここでのハイライトは正徳三年(1713)天満宮石祠です。しっかりした道真公の像が拝めます。この時代も多分子供の学問上達をお祈りされてきたのでしょう。続いてこちら。 稲荷大明神の石祠です。鳥居の前に阿吽の狛狐がいます。思わずカワユイといってしまいました。この境内には大杉神社・足尾山・金毘羅山石碑等があり民俗信仰が盛んです。こちらを後に元の道を共同墓地まで戻ります。
6-6.鹿黒共同墓地の十九夜塔
墓地を上ると通路沿いに下のように四体の十九夜塔です。左奥から延宝五年(1677)元禄五年(1692)寛文十年(1670)元文二年(1737)と江戸時代の古いものが多い。
6-7鹿黒三叉路入口の石仏 来た道を戻り県道4号に突き当たる。道路向かいのミラーの先に細い道が民家に入るように見えている。この角に石仏が草に埋もれていました。地場の方に聞けば「昔はこのあたりにあった筈だが・・」とのこと、勘を頼りに雑草が覆っている隘路を掻き分け見事発見。 下の写真で左奥が道路からの入口で嘉永七年(1854)文字馬頭観音です。
その横は右の二体の馬頭観音の台座と思われます。天明四年(1784)天明二年(1782)の馬頭観音です。台座から下ろされて草むらに横たわって埋もれていました。 その奥の草むらをなぎ倒し見つけたのが下の写真左に見える嘉永四年(1851)の出羽三山塔供養塔です。 三夜塔とは何じゃ?と思いましたが二十三夜塔のことだそうで「丙午弘■」となっていたので弘化三年(1846)と読んでみました。もたれかかっているのは天保十一年(1840)の猿田彦大神の文字庚申塔でした。疲れた! 本日はこれにてお終い。
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