2008/11/24

7.北総石仏 印西大森Ⅲ

7-1.印西中学前路傍の十九夜塔 印西中学正門の道路向側のT字路角に2体の十九夜塔です。状態がよくないので年号が読みきれませんが元禄三年(1690)と宝暦年間(1751~1763)のものと思われます。こちらでずっと子供たちを見守ってきたのでしょうか? 
  7-2.大森下星光院跡の石仏達 中学正門前のT字路を西に向かいます。道路沿いに家庭菜園・野原・畑が点在します。民家に突き当たると左に曲がっています。その角にかってあった星光院の住職供養塔?小さな石祠・石柱が忘れ去られたように存在します。石仏達はその突き当たり民家の左側=南側に笹に埋もれて置き去りにされています。7体ほどを確認しました。土地の方にうかがうと原っぱを家庭菜園にするのに石仏をこのあたりに片付けたようです。 写真手前から宝永元年(1704)次が元禄十年?(1698)の十九夜塔、三番目は下の写真の天明三年(1783)得大勢至菩薩の文字塔です。石仏事典で主に二十三夜待の主尊としての造立が多いと知りました。その次は?保五年の十九夜塔です。
5体目は下写真のように欠けた智拳印ですが金剛界大日如来像と思います。二十三夜待の主尊は勢至菩薩ですがこの像容と印を結ぶ手首を見るとそう思えません。年号等は不明。月待塔では十五夜・十六夜塔に大日如来の例があります。二十三夜塔でも大日如来の例があるそうですからあるいはそうかも。でも、墓碑という可能性もあり精査が必要でしょう。残り2体は年代不明十九夜刻像塔でありました。
7-3.古新田北向地蔵
印西中学校に戻り正門前の道を約1km南下します。左手にお立ち台に赤布をまとったお地蔵様です。テキストでは正徳三年(1713)だそうです。私は外見では分からずお地蔵様の赤布をめくるのは遠慮しました。「北向き」の石造物は結構多いのですがこの理由は研究課題としておきます。尚、傍らに小地蔵などありますが何れも墓碑のようです。
このお地蔵さんの近隣に見るべきものが3箇所にあります。
7-4.北向地蔵裏の馬頭観音
お地蔵さんのT字路を左折し地蔵の並び20m先の竹やぶ道沿いに5体の馬頭観音が横たえられています。
1体は安永八年(1779)の刻像塔です。下の写真のとおり宝馬・馬口印もしっかりしています。左端は安政四年(1857)一つ置いて嘉永五年(1854)あと2体は年号不明の馬頭観世音の文字塔でした。
7-5.古新田青年館の石仏群
北向地蔵に戻り来た道を戻ること1軒おいて隣が古新田青年館です。道路から上がると広場を囲むように右手から奥に石仏群が広がります。但し大部分が江戸時代墓碑なのでご注意。まず入口近いほうから10体程の十九夜刻像塔や二十三夜文字塔があります。お目当ては入って正面に見える印西大師堂31番の社の後ろにあります。
寛文八年(1668)の天蓋付き逆手の如意輪観音です。珍しい!
そして大師堂の左隣にも寛文十年(1670)二十三夜塔ですが右側面は勢至菩薩、左側面に地蔵菩薩を浮き彫りした文字塔があります。2mはある立派なものです。これだけのものを遺した女人結集パワー恐るべし。
大師堂後方の石仏を見ているとさりげなく六地蔵石塔があったりします。
7-6.火皇子神社の石祠
古新田青年館を出たところ左のT字路を東に突き当たると、天彦火火出見命(あめのひこほほでみのみこと)を祀る火皇子神社です。すっかり整備されテキストにある元禄十二年(1699)の鳥居は社殿側に片付けられています。石祠も見当たりません。左手の大木下に石祠2社を見つけました。右が寛政十一年(1799)金毘羅宮ですが左は道祖神でしょうか?
探し回った結果、目当ての町内最古享保二十年(1735)疱瘡神石祠は社殿右後ろにひっそりとたたずんでいました。
7-7.古新田庚申塚
元の道まで戻ります。このコースお仕舞いは庚申塚です。元の青年館前の道を250m南下すると左手に庚申塚がコンクリートで整備されてテキストから3基増えた15体の庚申塔群です。逆光で写りが悪くて残念ですが実物は迫力満点です。
前列7基は文字塔です。よく見ると左2基目はで常陸國住人某が建てた秩父坂東西国四国百八十八箇所巡拝記念供養塔となっています。残りは左から文化三年(1806)青面金剛王塔、一つ置いて文政五年(1822)延宝?八年(?1680?)嘉永六年(1853)万延元年(1860)明治三年(1870)の文字庚申塔です。
後列左端は上の写真のように状態のいい安永十?年(1781?)青面金剛刻像塔です。頂に大蛇もあっていかにも強力です。その右隣は蓮華模様の三猿塔です。続いて文化十年(1813)の異体文字庚申塔です。下の写真のようにちょっと珍しいけれどこの書体はなんでしょうか勉強せにゃあ。
続いて安永四年(1775)そして下写真のような宝暦十一?年(1761?)の笠付き青面金剛刻像塔です。
残りは寛?年間と文化九年(1812)青面金剛尊文字塔です。右端は弘化二年(1845)の庚申文字塔でした。お疲れ様でした。ふっー。

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