2008/12/09

10.北総石仏 印西永治Ⅱ

今回は浦辺仁王尊で名高い観音寺からのスタートです。どこをたずねても同じですが、テキスト「石との語らい」の20年以上前の調査時点とは大きく環境が変わっています。それだけ石造物の所在が分かりにくくなったり見当たらないことも出てきます。そのときは探したい情熱と勘が頼りとなります。探し当てる喜びはこれも一種の推理ゲームではないでしょうか。 
  10-1.浦辺観音寺の板碑 
 県道282号柏印西線を亀成から来ると右に90度曲がる所も直進し、約1.4kmで浦辺仁王尊観音寺の立て看板が目に付きます。ここを左折し道なりで浦辺観音寺に着きます。開放的な明るい山門を見上げるとこのようになっています。軒の下になにやら一対のものが目に付きます。 クローズアップします。左が使用前(失礼!)右が使用後の御礼代わりに奉納されたのでしょうか。安産且つ子育てに十分な効能があったという証にもなるし実に簡明です。 ガイドブックにはに「境内16基の石仏」「仁王門前の左手宝珠右手施無畏印の地蔵菩薩に注目」となっていますが、その後区画整理されたのかなかなか目に付きませんし、注目の地藏は首をなくして実に哀れであります。(下の写真左)観音寺は市指定文化財の板碑が有名です。本堂の中で保存されていた板碑と拓本を見せていただきました。阿弥陀如来の種子キリークが上下の蓮花に囲まれてのっておりました。(板碑を拝見するには寺務所にお願いする必要があります) この碑の重要性はこのようにかかれています。 10-2.観音寺観音堂の石仏
山門の正面に階段とその上に観音堂が望めます。階段を登りきった所左手に小ぶりの寛文四年(1664)五輪塔があります。形がいいそうです。 右手へ更に石段を登り新しく整地した墓地の入口下に張り出した区画に、石仏群は集団で疎開されていました。23基ほどですが前列と2列目半ばまでは墓碑なので注意。写真のように大半が十九夜塔ですが、後列中央の長方形は安永九年(1780)一億念仏供養塔です。 尚、右端に馬頭観音が2基あり手前が寛政四年(1793)、後ろが昭和32年ですが下の写真のように馬印は実に写実的でした。10-3.浦辺歓喜院の日記念仏 
 木下街道(県道59号)沿いに歓喜院の北向き地藏を表示した看板が出ています。表示の通り東へ曲がればすぐに歓喜院です。山門と駐車場入口は隣接していてその分かれ目に下のような安政六年(1859)の大日如来・日記念仏がたたずんでいます。側面表示から女人講中で設立されたことが分かります。 又、駐車場の南側面石段に30以上の石仏石碑が置かれています。最初の2基は左が花見堂地藏でその右奥は文化六年(1809)の日記念仏塔と分かりました。 ほとんどが墓碑ですが中に十九夜塔などが点在しているようです。更に駐車場の石段を登れば左手に弘化四年(1847)大乗妙典千人供養塔・天保四年(1833)十九夜塔などがあります。寛文九年(1669)十九夜塔の如意輪観音像は左腕をくり抜き彫りして凝ったつくりです。
  10-4.泉倉寺墓地の念仏供養塔
ふれあいバスの小倉停留所そばに泉倉寺歴代住職の墓地があります。通りに面し墓碑が固まっているのですぐ分かります。正面右手の墓碑群の最前列が常念仏塔と呼ばれる宝永三年(1706)念仏供養塔です。二千回念仏供養塔となっていて「一千日の常念仏を2回繰り返した」とテキストに書かれています。尚、この墓地のT字路となっている電柱の陰に道標が立っています。「西 浦部村・・」「南 戸部村・武西村壱里十五丁」「東 千葉本廰八里五丁」などが読み取れました。大正・昭和初めの道標でしょうか。定年で役割を終えたとはいえ、ゴミ置き場と電柱に囲まれての余生は可哀想です。 10-5.泉倉寺の六阿弥陀巡拝塔 
 バス停の通りを北へすぐに右手下が泉倉寺となります。正面入口の大銀杏のそばに総州「六阿弥陀第三番」の碑が立っています。文政十年(1827)となっています。 又反対側には文政六年(1823)普門品拾萬巻・敷石供養塔の石碑が立っています。境内には印西大師一番五番などにぎやかです。そして本堂の後方左手に上の写真のように読誦塔・庚申塔・題目塔など10基が並んでいます。右端は笠付三猿庚申塔です。
  10-6.宝珠院観音堂(光堂)の十九夜塔 
 泉倉寺の金網沿いに印西観光協会の宝珠院観音堂(光堂)の案内表示が出ています。狭い通路を曲がりくねって行けば茅葺の本堂脇に出ます。禅宗様式で室町時代に建てられた国指定重要文化財です。境内には大きな観音杉や印西八景「光堂の雪景色」と表示があってしっとりと落ち着いた雰囲気が味わえます。 写真の右隅に石仏が並んでいるのが見えます。合計13基並んでいます。全般的に目新しいものは見つかりませんでした。その中では明治36年「如意輪尊」の文字塔が目に付きました。左からの4基を写真に載せています。明治24年(1891)の子安塔、嘉永三年(1850)十九夜文字塔、文化十年(1813)如意輪観音塔です。右端は個人の墓碑のようですが他に平成4年の子安塔もあります。本堂裏にも2基の板碑断片。享和三年(1803)全信塔???←調査課題などもあります。 もと来た道を戻りバス通りに出て進路左手すぐで「小倉青年館」の案内板があります。指示に従い通路中央の排水溝を頼りに進めば小倉青年館の広場に出ます。 
  10-7.小倉青年館の石仏群 
 入口から広場が開け正面に小倉青年館の建物があります。遠くの建物の前に目立たないですが二十三夜塔が立っています。明治十九年(1886)製で「南 武西」左面に「西 白井 東京」右面に「?新田 木下濱街道」と書かれ道標を兼ねた二十三夜塔です。 広場左手に石造物が70~80基ほど点在しています。半分以上は墓碑なので石仏探しは一つ一つチェックが必要でしょう。写真左の木に連なる文字塔の右手白っぽい石仏(左から2基目)が町内最古らしい寛文五年(1665)十九夜塔です。下の写真のような元禄十二年(1699)のすっきりした十九夜塔もありました。又、竹やぶには(十九夜)念仏講中の表記しかない享和三年((1803)十九夜塔も半ば埋もれていました。 他に庚申塔、弘法大師供養塔、如意輪観音などがあります。ゆっくりと見て回れば新しい発見があるかもしれません。次の和泉会館まで約3kmあります。今回はここまでとしましょう。

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