2008/12/14

12.北総石仏 印西木下Ⅰ

木下と書いて「きおろし」と読みます。千葉県の北西部をJR成田線が走っていますがその中の木下駅が出発点となります。このコースも印西教育委員会の「石との語らい」をテキストとして回ります。今回も色々な種類の石造物に出会えました。出発! 
12-1.山根山の不動尊の石仏群 
木下駅前入口交差点を右(東)方向へ進み突き当たり三叉路木下三角交差点を左にとって、駅から600mほど進めば民家の間の細い参道を見つけると不動尊が正面に見えます。隣が町営の子供の遊び場となっているのでこれを目印としても分かりやすいでしょう。 手前に古そうな狛犬と奥に新しい狛犬があります。新しい狛犬の右手に見えるのは何でしょう?出ました!! 木下特産の貝化石です。 右に見えますのは大森コースでお見せした貝化石石祠の親分ともいえる貝化石灯篭であります。年代不詳ながら当地特産木下貝化石層から作られた灯篭が圧倒的な存在感を示しています。左の昭和50年・聖徳太子講碑なんかまるで相手にしていないかのようです。実はこれより小ぶりですがもう1基が手前左側にあります。 その奥に並んでいるのは下の写真ですが左が明治35年の子安塔、右が文久二年(1862)の十九夜塔であります。
又、参道の左側に明治42年加蘇山塔、大正12年子安塔、天保十二年?(1841)猿田彦命塔、安永四年((1775)十九夜塔などもあります。本堂左手裏には次のようなラインアップで並んでいます。 左から「???」・・・・なんじゃこれは。多分、明治13年「唐犬濱之墓」と読むと思います。ペットのお墓と解するのが妥当?それにしても昔からペット好きの人はいるもんだと思いました。 隣は江戸末期の書家の筆子塔のようです。次が平将門の愛妾「子宰相」の碑、明治24年に念仏講中で建てられました。
墓碑を一つ置いて右端は文政九年(1826)の如意輪像を冠した十九夜塔です。私には珍しい。
本堂右手は庚申塔2基で左から昭和8年・51年物と、右端は安政四年(1857)の普門品供養塔です。 他に線彫不動明王や古い狛犬は石工の刻印入りだったりします。様々な記念物が集まっている不思議な空間ですね。 元の道から来た方向へ戻り駅には寄らず踏み切りをこえて更に進むと右手に上町の観音堂があります。 
12-2上町の観音堂 
参道の形跡も薄く広場の周りに石碑や石造物が雑然と集められた感じです。道路沿いに十九夜・一石六地蔵・庚申塔などがあり、参道と思しきあたりは二十三夜塔・廻國塔など、入口道路沿いは庚申塔で広場内側は印西大師第30番・印西七福神寿老人・・・という具合に、こちらは石造物の老人健康施設みたいな印象です。正面から見ると赤い観音堂が見えます。上の写真左に見えるのは元禄十三年(1700)の道標を兼ねた合掌型邪鬼三猿付青面金剛塔です。下の写真側面に「右 江戸みち 東 ・・・みち 左 さくらみち」となっています。(・・・は初心者の為読めませんでした、勉強しておきます)この並びに天明二年(1782)如意輪観音像を冠する十九夜塔道標があり、宝暦十一年(1761)青面金剛尊塔や石祠などが続きます。 境内の右手は写真のように印西大師第30番、大正5年南無大師供養塔、大正9年子安塔、明治36年普門品十万遍供養塔、印西七福神寿老人が並んでいます。又、この反対左手はバス道路ですがその柵沿いは文政九年(1826)十九夜塔や安永二年(1773)一石六地蔵などが並んでいます。尚、この観音堂の銅造十一面観音立像は県指定文化財に指定されています。 12-3.下町浅間神社 
 観音堂を出て南下30m程で左折する道路に入り、100mほどで住宅街の中の右手角の区画に窮屈に鎮座しているのが下町浅間神社です。 ガイドには木花開耶姫命の大型美形石祠と表現され期待して行ったのですが、正面から見ただけではそう見えません。裏に回って文久三年石祠とご対面となったのですが・・・・勝手に大型像塔だと思ったのが早とちりでした。窮屈な空間に下のような庚申塔が右側3基左に青面金剛刻像塔2基とお住まいでした。尚、写真左手の三猿塔は正面に「奉献」と表示されただけの弘化二年(1845)の変わった庚申塔でした。 ここは他に出羽三山三十三度大願成就塔なんかもありました。明治6年にも元気な人がいた証でしょう。今回はこれまでとしましょう。

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