2008/12/09

11.北総石仏 印西永治Ⅲ

今回は和泉会館と和泉鳥見神社の2箇所の碑仏見学ですが、質量共に充実しています。お奨めです。 小倉地区からバス通りを約1.5km北上し、右に戻るようにして山の端沿いの道路に入ります。約1.5kmほどで和泉会館のある石段下に到着です。 
11-1.和泉会館の石仏群 
石段を上がると広場です。左手銀杏の木の下に左・印西大師15番、右・3番の破れた祠と後方に石仏群が見えます。十九夜塔7基、子安塔7基、十六夜塔(破損)、読誦塔2基のほかに奥の草むらにも石仏が転がっています。下の写真、前列右の十九夜文字塔は昭和48年・58年のものです。中央は昭和29年、左は昭和37年の子安刻像塔で前列は奇しくも昭和のラインアップとなっていました。 テキストは寛文十八年表示ですが写真のように寛文八年(1658)申と読める十九夜塔が古いものです。あと元禄三年(1690)、文政元年(1818)、嘉永七年(1854)~昭和58年十九夜文字塔などがあります。延宝五年(1677)十九夜塔は如意輪観音の左腕をくり抜いた丁寧な彫りになっています。 子安塔は文化十一年(1814)塔の子供を懐に抱えた姿がほほえましく、昭和29年(1954)の赤子が合掌するポーズと合わせてみると面白いでしょう。下の写真、左の文政元年十九夜塔の如意輪観音ののどかな表情と右の赤子を懐に入れた子安観音の慈愛の表情の違いが可笑しいです。続く写真の昭和29年子安塔は赤子が合掌し子安観音が半跏踏み下げ姿というのはどうも抹香臭くイマイチ愛情がわいてきません。明治27年(1894)や大正9年・昭和8年など子安塔の像容の変化を見るのも楽しいものです。 片隅にあった寛文六年(1666)阿弥陀如来も素朴でいいと思います。テキストに載っていた十六夜塔は無残な姿で残念です。合掌。 この場所は階段の降り口から千葉ニュータウンが綺麗に見える高台にあります。晴れた日は絶景ですね。11-2.和泉鳥見神社
和泉会館の階段を降りたら左へ道なりに500m、右に曲がり左に曲がりしながら右手墓地を過ぎれば左手に鳥見神社が現れる。 道路沿いに庚申塔が並んでいるのですぐわかります。こんな具合になっています。上の写真では左から明治19年・39年、昭和57年、大正11年、昭和2年・22年の6基です。下のほう続きは昭和28年・38年・52年庚申塔・右端は昭和30年の出羽三山塔です。山岳信仰モールと言えばいいのかこちらはやけに沢山の神様が集合されています。全体像は次の写真をご覧ください。浅間神社・琴平宮・出羽三山・天満宮・三峯神社・三島神社・鳥見神社・足尾神社の八社連合です。下のほうが道路側です。浅間神社に続く参道はこのように庚申塔が文字塔・刻像塔混在で並んでいます。左から寛文元年(1661)・天保十年(1839)・享保二十年(1735)・明和七年(1770)・文政元年(1818)の庚申塔です。この後右方道路入口方向へ文化七年((1810)・天明八年(1788)・享保元年(1716)・宝暦十三年(1763)・明治六年(1873)・昭和63年(1988)と11基が並んでいます。例えば明和七年の「青面金剛尊」は見事な文字塔で残っています。又、天明八年塔は炎髪の青面金剛を下の鬼が両手で重量挙げのごとく支えています。果たして立ち上がれるか、ちょっと可愛いですね。庚申塔が両脇に並んだ写真に写っていた鳥居は琴平宮へ続きます。その隣の出羽三山供養塔は下の写真のように並んでいます。写真手前の三山塔は三山名が一列横並びの平成三年塔で新しいものです。ところでこの写真右から3番目は平成11年塔で最新作であります。ところでこの他に次の写真のように不思議な「湯殿山」と刻まれただけの明治二十年塔があります。欠けている部分があるので残欠?でしょうか、不思議。出羽三山供養(参拝)塔は合計9基で文政六年(1823)~平成11年(1999)まで続いていることになります。凄い。本来の鳥見神社はこんな風にシンプルになっています。市の無形文化財いなざきの獅子舞の説明版をつけておきます。永治地区は庚申・出羽三山連合体での締めくくりとなりました。

0 件のコメント: