百庚申のある県道59号から西へ白幡道に入ります。この分岐に写真のような道標が看板の陰にひっそりと立っています。裏は東京道と書かれこちら側は石?尊道と読めます。明治か大正のものと思われますが移設もされず頑張っているのを見るとちょっと切ない気持ちになります。
白幡道を少し行くと、右にカーブする三叉路の消防小屋の隣で下の写真のような庚申塔群に出会います。
朱入文字庚申塔8基、朱入青面金剛刻像2基、三山塔1基が花と木に囲まれています。享保九年(1724)のショケラ持ち青面金剛は鬼が頭で青面金剛を支え、下にいる三猿の聞か猿も両足を広げてストレッチしているのが可笑しい。
もう一つの青面金剛刻像は天保十二年(1841)であり庚申文字塔も天明二年(1782)から昭和41年(1966)まで存在、朱の色も鮮やかでこの地区で今も庚申塔が大切にされていることに感心します。
9-4.一ツ庚申の庚申塔消防小屋を過ぎて道なりに進むと三叉路となります。ここに朱入笠付の三猿文字塔があります。寛文十二年(1672)で左側面は蓮華が浮き彫りです。鮮やかな朱色を見ると信仰が今に息づいているかも知れないと驚いてしまいます。
9-5.白幡山吉祥院の如意輪観音
一ツ庚申の別れ道を右にとる。程なく突き当たるので矢張り右へ道なりに行くと竹林の坂を下り始めるが、その手前で右にあがると吉祥院の建物のある広場に出ます。区画整理のためか浮島のように石仏石塔が固まって置かれています。下の写真中央には読誦塔を真ん中に大きな笠付き墓碑3基、そしてそれを取り囲むように如意輪観音や十九夜塔、子安塔等20基余りが並んでいます。
上の写真左から十九夜塔は平成4年(1992)、昭和46年(1981)、昭和29年(1954)、昭和9年(1934)、明治38年?(1905)以下不詳と並んでいます。何れも乳飲み子を抱えた子安塔であり子の無事を祈る気持ちが朱色とあいまって切ないように迫ってきます。
右端の如意輪観音(上の写真)は寛文九年(1669)で永治地区最古とテキストに表示されていますが、私には年代は読みきれませんでした。尚、このほかにも左方に天保十年(1839)十九夜塔、二十三夜文字塔などがあります。
9-6.白幡八幡宮の参拝塔群(平成20年の出羽三山供養塔発見)
吉祥院からもと来た道を戻ります。一ツ庚申へ戻らず直進するとT字路状の変則十字路に出ます。その路傍草むらに馬頭観音が3基見えます。左が明治28年(1895)真中は不明、右が安政五年(1858)の文字塔です。この道を農耕馬や荷車を引いた馬が行き交っていたのでしょう。供養されるほど人と馬が親密な関係に合った時代がつい百年前まであったのがこの証です。ところで真中の文字塔の種子はなんだろう?読めないよ?
この辻を右折し道なりでうっそうとした森の中を通り抜けます。左に鳥居が見えるとこれが白幡八幡宮です。薄暗い境内です。特に左側に参拝供養塔が立ち並んでいます。
上の写真6基も両端は昭和37年、昭和44年出羽三山塔ですが、あとは昭和41年・43年伊勢講・大正2年大山講・昭和33年金毘羅参拝塔が並んでいます。農村の人々の信仰と参拝ツアーの熱心さがこんな形で残っていました。この地では伊勢講は他に石祠もあって大正~昭和にかけて特に活発に行われたようです。他にも宝暦十二年(1762)子安大明神石祠、寛政年間の疱瘡神石祠、天保九年(1838)月讀尊石祠、天保五年?(1834)石祠昭和9年三峯神社石祠など民間信仰石造物がオンパレードとなっています。 それらの痕跡が現代に引き継がれた極めつけはこれ、平成20年三山塔であります。今回はこれにて打ち止めとします。
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