21-1.泉集会所の十五夜塔
泉集会所敷地の道路際に庚申塔16基、子安塔8基、十五夜塔1基、十九夜塔1基、二十三夜塔2基、花見堂地藏1基、読誦塔1基計30基が並んでいるとテキストにのっています。手元に記録が残っておらず確かな情報を記せないのは残念ですが、気になる石仏を見てみましょう。まず石仏でよく見受けられる異体字庚申塔です。「青面金剛王」ですね。下の写真はよくある六臂庚申刻像塔ですが数珠持ちは面白く又、いかにも北総風でのんびりした像容ですね。次は寛政五年(1793)十五夜塔ですがこの地域ではめったにお目にかかれません。私には珍品(失礼)で強く印象に残っています。次は読誦塔ですが正面には「大般若利趣分経千部」「大乗妙典千部云々」、側面は近隣村が納経した記録を手書きで記されていていかにも皆で信仰したという気になる信心塔です。泉集会所をでて西へ県道4号(千葉竜ヶ崎線)に出ます。草深新田のバス停曲がり角を南下せずに西方へ逸れる道をとります。
21-2.高堀路傍の道標
県道4号を西にそれる角に自然石庚申塔と小さな道標があります。これは明治22年(1890)庚申道標で旧字体で「東なりた、南ちば、西白井東京」となっています。写真を拡大してみてください。右も大正8年(1919)道標で「草深開墾企業二百五十年記念」と読めるでしょうか?21-3.草上コミュニティセンターの子安塔
天王前バス停の集会所敷地に印西大師79番のお堂がありますが、その奥に聖観音と5基の子安塔があります。テキストでは聖観音像を寛文十三年草深地区像容最古と記していますが、個人墓碑でありここでは取り上げません。左から昭和58年、昭和27年、大正9年、明治20年、年不明順に並んだ子安塔の整列です。右端が墓碑の聖観音像です。石仏の前にY字形の塔婆がふたつ立ててあります。前にも記したものですが「犬卒塔婆」と呼ばれ「犬供養」で行われるものです。「犬」は安産のキーワードと関連しますね。詳しく知りたい方は事典を引いてみてください。21-4.ランドローム(食品スーパー)裏の二十三夜塔
テキストではこの場所を「弁天前路傍」と表示してありますが、今は影も形もないので食品スーパー裏と表示してみました。
天王前信号を西進して約1kmでランドロームという食品スーパーが右手にあります。入口の駐車場に7基の石仏が並んでいます。左端は台の下にあるので見難いですが昭和6年馬頭観音文字塔、昭和26年子安塔、寛保元年勢至菩薩?、大正2年勢至菩薩、明治11年二十三夜塔、明治24年厳島神社、不明石祠が並んでいます。このうち明治11年二十三夜塔は道標で側面に「北 大もり・・西 しろゐ・・」などと読めます。尚、寛保元年勢至菩薩に?をつけたのは読みきれずにテキストを引き写したためです。参考までにこんな石仏です。
21-5.内川青年館の庚申塔
ランドローム(食品スーパー)の三叉路を左折し500m西進した信号角に内川青年館があります。三角形の駐車場の縁に10基の庚申塔・馬頭観音が並んでいます。左から明治23年文字庚申塔、天保十三年(1832)猿田彦大神、宝暦八年(1758)ショケラ持青面金剛、宝永七年(1710)合掌六臂青面金剛、年不明十九夜塔、明治10年剥落不明塔、残り4基は明治38年、大正5年、明治6年、昭和23年の馬頭観音文字塔です。こんな感じで塔形が様々です。そしてこの塔列の左端はずれに背の低い道標が立っています。「北 古新田 別所道」「西 泉 六軒道」「東 仲草深・・」「南 結縁寺 舟尾」などが読み取れます。最近、道標に出会うことが多くなりました。どの辺の道に立っていたのかなと気になり、つい読み込みに気を取られます。内川青年館前で左手草深小学校へ道をとり約700mで左手高台に丸山観音堂・側集会所・印西大師79番にたどり着きます。
21-6.丸山観音堂の石仏
道路に面した石段を通り過ぎ次の角を回り込むと参道入口があります。右手の草深小学校グラウンド際に2基の石塔です。左は大乗妙典日本廻国塔で文化五年(1822)備中國で病に倒れた人の供養塔のようです。側面の書き込みはそういうようなことかな?右は阿弥陀如来が弥陀定印を結ぶ享和三年(1803)日本廻国塔です。ここで廻國塔とは何かということですが、「大乗妙典と呼ばれる法華経をわが国六十六箇所の霊場に保存する目的で六十六部つくり、それを一部ずつ霊場に納める目的で国々を回ったり、廻っていることを銘文にした塔」と日本石仏事典に出ています。何年かかかる間にはこのように病に倒れる人も多くその供養で建てられることも多いようです。参考までにその廻國する姿を現した有名な珍しい石仏があるので載せておきます。大乗妙典を入れた笈を背負った遊行聖姿で六十六部とも呼ばれました。正徳四年(1714)造立で柏市高柳区民会館敷地にあります。さて、丸山観音堂へ進んでいくと右手には8基並んでいます。左から文政六年(1823)文学碑?、明治4年・明治30年出羽三山塔、大正2年子安塔、慶応元年(1865)馬頭観音塔、明治15年子安塔、?保二年子安塔、明治33年正観世音塔です。左から4基目の子安塔です。このように乳房をリアルに造る子安塔もよく見かけます。赤子の手が片方の乳房をつかんでいるのも面白い図像です。この右隣の馬頭観音塔も三面八臂でなかなか立派なものです。テキストの「三面六臂」は誤植でしょう。この石仏と反対側に7基の石仏と奥に見えるのは四国巡拝の自然石碑です。左から天明元年(1781)青面金剛王文字塔、明治15年・文久三年(1863)文字庚申塔、不明石塔、元文元年(1736)青面金剛塔、不明石塔、天明三年(1783)不動明王文字塔(道標)となっています。上の写真左は通称「六角庚申」と呼ばれ台石が六角形の道標となっていて極めて珍しいものです。これは右端の天明三年不動明王石塔ですが、「従是 なりた・・」「従是 ふさ村・・」などの表示があり道標と分かりました。尚、奥の四国巡拝塔には33箇寺の主尊が線彫りされています、何だろう?
21-7.側集会所の九十体大師堂
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http://inzaifc.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
ご覧ください。
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